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夏コミに行ってきました。

8月14日の夏コミ三日目に、「ラノベ作家休憩所」でサークル参加してきました。

新刊の「流麗小説。」はコミックZINさんにて委託販売をしていただいてますので、興味のある方はそちらからお求めください。

以下、コミケでいただいたものです。

2016夏コミの戦果


イベント当日は、「アキハバラ∧デンパトウ」のイラストを描いてくださってるれい亜先生のサークルにご挨拶にいったり、毎年うかがってる石川博品さんのサークルへ行って執筆の話をしたり同人誌の交換をしたり、八薙玉造さんや宮沢周さんといった昔からの知り合いの作家のサークルへ行っていろいろと邪魔したり。

サークルにいらしてくださった方々、交流してくださった方々、どうもありがとうございました。
ふだん人と会わないので、超うれしかったです。やっぱイベントっていいですね。
ただ、売り子をしなければならないのと、自分の体力がないせいで、あまり会場を見てまわることができないのが残念でした。
すぐにばててしまう脆弱な体が憎い。

当日は、イチロー選手にならって無精ヒゲを生やして行ってみたのですが、どう見てもマサ斉藤かカールのおじさんみたいになっていました。
このツラで貧弱っていうのは、もっとも情けないパターンですね。

上の写真の、中央に置いてある「松のいうことを聞きなさい!after」は、今年急逝された松智洋先生の追悼本です。
自分も「成松さんのアドバイス」という題で、成松さん(松先生の本名)とはじめてお会いしたときのエピソードを800字ほど寄稿しました。

いま、この追悼本を読んでいてあらためて思うのが、「松智洋・成松孝洋」という二つの名前が、とてつもなく大きいものであったということです。
すぐれた作家・ライターであるのみならず、コミケスタッフとして、ライター会社の会長として、多くの人びとに影響をあたえていたことが、さまざまな方の証言からうかがえます。

お元気なままであれば、いつかコミケの代表になっていたと思いますし、商業だけでなく同人業界もさらに盛りあげてくださったはずです。
百人力どころか千人力、万人力といっていいほど精力的に活動をされていました。
21歳のデビューしたてのころ、松先生(当時は成松さん)とお会いできたことは、自分にとって一生の財産です。
あのときの、「この業界にはこんなすごい人がいるんだ!」という衝撃は、わすれることができません。

「松智洋・成松孝洋」の死去は、ラノベ業界のみならず、日本のコンテンツ業界全体にとってたいへんな損失です。
きっとこれから、さまざまな分野で不在の影響が広がっていくと思います。
本当に偉大な人は、亡くなられたあとにネズミ算式にその影響が波及していくものですから。

自分も松先生から薫陶を受けた者の一人として、少しでもその背中に近づけるようがんばりたいと思います。

夏コミにサークル参加します。

今年の夏コミも、同人サークル「ラノベ作家休憩所」で参加します。

コミケ三日目の、「8月14日(日)東地区"ノ"ブロック47a」です。

サークルのサイトはこちら。
http://seijoshosetsu.com/

今年の同人誌タイトルは「流麗小説。」となっています。

同人誌タイトルは毎年、メーリングリストで作家たちが案を持ち寄って決めているのですが、歴代のものをならべてみると、

・雑音ソナタ。(2010年)
・正常小説。 (2011年)
・中性小説。 (2012年)
・流星小説。 (2013年)
・救世小説。 (2014年)
・求刑小説。 (2015年)
・流麗小説。 (今年)

という感じになっています。
最初の「雑音ソナタ。」は試験的にはじめたときのものでこれだけ傾向がちがいますが、ほかの年のタイトルをならべると、なんていうか似ててまぎらわしいですね(^^)

音の響きがとても似てるので、しゃべってると混乱してきます。
もし一人でタイトルをつけるとしたら、こんな似たものにはならないでしょう。
なんというか、集合知というものはアテにならないという例のような気もします。

自分は、「ひまわり」という小説を寄稿しました。
文庫本換算で30Pちょっとの短篇ですが、おもしろいものに仕上がったと思います。
内容を一言でいうと、

・「爆弾」で滅んだ世界で、思い人と死に場所を探し求める少女と、ひまわりの種を植えつづける少年の物語。

という感じでしょうか。
自分が18歳のとき、はじめて最後まで書けた小説を全面的に改稿したもので、その点からも思い入れがあります。

コミケ当日は、僕と森田季節さんの二人で売り子をやっています。

新刊のほか、旧刊の「求刑小説。」「救世小説。」「流星小説。」も少部数持っていきます。
新刊は当日売り切れることはないと思うので、これだけほしい方は遅い時間にいらっしゃってもだいじょうぶだと思います。
自分たちはラストの16時までいる予定です。

ただ、旧刊の三冊については部数が少ないので、今回ですべて売り切れてしまう可能性があります。
そちらがほしい方は、はやめにきていただいたほうがよいかと思います。

サインなどをお求めの方は、お気軽にお申しつけください。
小説畑のほうはあまり人がいないので、だいたい暇してますので。

ではでは。

アキハバラ∧デンパトウ・第11回解説

アキハバラ∧デンパトウ (GA文庫)
藍上 陸
れい亜 (イラスト)
SBクリエイティブ


第10回の解説はこちら。

――――――――――――――――――――――――――――――
「では……家出、かね?」
 互いに顔を見合わせた。
 向き合った六人によって、沈黙の輪が作られた。
 中央にぽっかりあいた空間が、ここにいない彼女の立ち位置を示していた。
――――――――――――――――――――――――――――――

今回は前回のラストを受けて、ペンネが家をでてしまうという展開です。
ラストの大きな展開に向けて、一つ事件を起こしておこうと思いました。三段跳びでいう、二つ目のジャンプみたいなものです。
上記引用文では、映像的に「本来中心にいるべきペンネがいない」という状況をあらわそうとしています。
輪の内側にカメラが入って、とまどう面々の顔をぐるぐるとPANしながら映していくようなイメージです。

前回でシリアスな展開が発生しましたが、あまりシリアス度があがりすぎないよう気をつけました。
本作はあくまでもコメディなので、そこを踏み外さないよう、「肩すかし」を入れるようにしています。


――――――――――――――――――――――――――――――
「――チロ、ずっとウチらを監視しとったんか。」
 となりから、刺すようなせやねんの声がきた。
「う……」
 歯を食いしばった。
 しかし――

「まぁええわ。」
 さらりと流された。

「それでペンちょんのことやけど――」
「えっ!?」
――――――――――――――――――――――――――――――

チロの「罪の告白」の場面です。通常であれば修羅場になってもおかしくないですが、さらりと流すようにしています。
この作品では、同じ部屋にいるキャラたちが好き勝手にべつべつのことをやっていたり、食事もばらばらにとるといったように、あまり関係性がべたつかないようにしています。


――――――――――――――――――――――――――――――
はい、と答えて部屋をでた。
             ∽∵\―∧
「行ってきます、理科標本さん。」
 視界の隅で手をふってくれる彼に答え、通路を歩いていく。
 するとやおら、ZOOの住んでいる一〇八号室のドアがひらかれた。
 例の動物たちが、ぞろぞろと部屋からあふれてきた。
 カピバラの《ポルポト》が、眠そうな目でチロを見つめる。
『よう、居場所があるっていいもんだろ。』
「――――」
 チロは目をみはった。
 そのポルポトの背中に乗ったアンゴラウサギの《毛沢東》が、毛に隠れた口を動かす。
『牛は牛連れ、馬は馬連れ――コレ、中国人の知恵。』
 床を這うニシキヘビの《クレオパトラ》も、長い睫毛のありそうな目つきで、
『仲直りをするのに、遅すぎるっていうことはないんだから●白抜きのハート●』
「――――」
 チロは目をみはったまま、
「……いや、動物に激励されても。」\何者だよほんと/
 相変わらずのシュールさに、なんともいえない気分になった。
――――――――――――――――――――――――――――――

ここでも、動物たちを使ってギャグっぽく肩すかしをしています。
上記引用文の理科標本の「∽∵\―∧」の記号は、縦書きにすると手をあげているように見えます。

理科標本が手をあげる


こんな感じで、理科標本の記号は、いろいろいじって遊ぶことができます。


――――――――――――――――――――――――――――――
「ひょっとして……」
 上体をねじり、心当たりへ向けてスニーカーを大きく踏みだした。
             ∽∵∧―∧
 宙に浮いたスニーカーの爪先が、『上野恩賜公園』と刻まれた石碑の近くに着地した。
 秋葉原から上野公園の入口まで、走って十分もしなかった。
――――――――――――――――――――――――――――――

ここではステープリング・テクニクスの「動作跨ぎ法」を使っています。
文字どおり、踏みだしたスニーカーの足で場面を「またいで」います。
ここはペンネを探す場面で、場面転換に連続性とスピード感が要求されるので、この手法が有効に機能します。


――――――――――――――――――――――――――――――
「ペンネちゃん……」
 下から小さく呼びかけてみるが、蝉の声がうるさく、声が届かない。
 相変わらず歌いつづける彼女。
 しかしチロはふと気になった。
「……歌?」
 そこで耳をすましてみると、 

「みーんみんみんみんー。みーんみんみんー。」

 ペンネは歌ってなどいなかった。
「蝉かよっ!?」
「え? ……ふぁっ!?」
 こちらに気づいたペンネが、あわてたように肢をばたつかせた。
 はいていたエンジニアブーツの片方が脱げた。
 自由の身となったブーツはとんぼ返りを打って別れを告げると、爪先を頭にしてトンビのようにチロめがけてつっこんでいく。
――――――――――――――――――――――――――――――

ここでも、シリアスになりきらないよう、ペンネに蝉のまねをさせることで肩すかしをするようにしています。
エンジニアブーツが脱げて落っこちるのは、第1回の冒頭にあったシーンを再現したものです。
出逢いのきっかけのシーンを再現することで、「二人の新しい関係がまたここからはじまる」ということを示しています。

第11回の解説は以上です。

マンガ表現の特徴と、ライトノベルの文体論

Twitterでつぶやいた表現がらみのことを、まとめてみます。

マンガという媒体の魅力の一つに、「一気に情報が流れこんでくる」点がある気がします。
本来は一コマずつ順を追って読んでいくべきなのでしょうが、ページをひらいた瞬間、さまざまなコマが怒濤のごとく目に飛びこんできて脳を刺戟します。
このビジュアルの情報量の多さがマンガの特殊性な気がします。絵だけでなく、書き文字や集中線などの効果もそうですね。

見方を変えれば、異なるコマの集合体によって、ページ全体で一つのコラージュ作品を形成しているともいえます。
ためしに、コマを切り抜いて一つずつ順番に見ていくようにしたら、おそらくおもしろさは半減してしまうでしょう。
僕は四コママンガの形式がさほど好きではないのですが(あずまんが大王みたいに好きな作品もありますが)、その理由の一つは、ストーリーマンガと比べて情報の順番が整理されてしまっているせいだろうと思います。
そのぶん、四コマは圧倒的に読みやすいというメリットがあるのですが。

呉智英さんが、「現代マンガの全体像」のなかで、「現示性」と「線条性」というワードでマンガの特性を語っておられますが、個人的にはそこに「氾濫性」とでもいうべきものもある気がします。

マンガを読むとき、コマを順番どおりに追わないで、目立つコマからさきに見てしまい、さきの展開を知ってしまうということがあります。
しかしそれが問題とならないのがマンガのよいところで、すぐにコマをさかのぼってストーリーを理解することができ、コマのあいだを好きなだけ往復することができます。
これは映像とは本質的にちがうところです。

映画やアニメは、基本的に頭から順々にストーリーを追っていく形式です。
いまでこそ、再生機器でシーンを巻きもどしたりストップしたりできますが、本来視聴者は時間にそって映像を受けとるしかできませんでした。
一方、マンガの場合は情報が前後問わずに一気にやってきて、読者が好きなように読み解いていけます。
この点において、マンガとアニメは一見近いようでいて、かなりちがいがあります。

ひるがえって、小説の場合はどうでしょうか。
マンガと同じく、任意でさきの文章を読むことができますが、絵とはちがって理解しやすいとはいえません。
基本的に、順番に読み解いていく「線条性」の芸術なわけですね。

しかしこれは、小説のジャンルや文体にもよって変わってくるかもしれません。
Togetterで、こういうまとめがありました。
あなたはどっち?文章の読み方は人によって違う

このまとめによると、「ブロック読み」や「斜め読み」とでもいうような読み方をされている人がいらっしゃいます。
小林秀雄が、「文学は読むだけでなく、眺めることが大事だ」という趣旨のことを書いておりますが、小説の味わい方として、そういうやりかたもあるということでしょう。

このような読み方をしている人は、最初にざっと文章を目で追って「文章の端々の刺戟」などを楽しみ、そのあとにふつうに読み返してみて、あらためて話の筋を楽しんでいるのかもしれません。
「漠然と文章全体の模様を楽しむ」という読み方は、読書好きなら理解できるのではないでしょうか。

それをさらに推し進めようとしたのが、フォントサイズを大きくしたり、空白行を多用したりするラノベの書き方なのかもしれません。
一部のラノベにある、イラストとの融合を試みるような書き方もその一つでしょう。

自分は小説でフォントサイズを変えたりはしないのですが、その気持ちはわかります。
しかし、うまくやらないと小説の読み味が大味になってしまいがちです。

とかくラノベの文章がバカにされがちなのは、このような事情があるからだと思います。
つまり、ラノベ独特の文体論というものがまだ確立されていない。
世間がイメージする「よい小説の文章」とは、いわゆる純文学的な、線条性を前提としたものです。
しかし、ある種のラノベ作家たちは、そういう線条性を前提とした「純文学的な文章」では不満足なのです。
そういう文体では、自分たちのイメージや「読み味」を表現できないと感じている。

泉子・K・メイナードさんが、「ライトノベル表現論」にて、「ライトノベルは語りから会話・発話へ、描写より演技・実演へという傾向がある。」と書いておられますが、それとも関係しているでしょう。
純文学のように「描写」で示すのではなく、ラノベは現在進行的な「シーン」で示したいのです。

その「シーン」をうまく書くための文体が、業界全体でまだ模索中ということなのだと思います。
それが世間では「稚拙な文章」に思われてしまう原因だろうと思います。
また、中途半端にマンガにすりよっているように見えてしまうのも悪印象につながっているでしょう。

自分は、小説には物語のドラマ性とともに、つむがれる言葉のドラマ性がほしい、と思っています。
キャラクターが冒険をするように、言葉それ自体も冒険していってほしい。
それはきっと小説にしかできないことだと思いますし、ラノベという媒体は、既存の文学とはちがう文体論が成立可能なので、新しい言葉のドラマが作れると思うのです。

ラノベ作家たちがそれぞれの文体論に挑戦するとき、新しい可能性がひらけるのではないでしょうか。

また、表現についての議論が深まらないままだと、どんどん「企画主義」が進行していってしまいます。
売れ線のパッチワークみたいな企画しか通らなくなるおそれがある。
売れ線を狙うのが絶対に悪いというわけではありませんが、もっと表現の観点からおもしろさを追求しないと、読者に飽きられてしまうのでは? という危惧が自分にはあります。

本来、表現と企画は分離できるものではなく、相互に影響を与えあっていくものです。
「こういう表現の読み味を楽しんでもらいたい」という観点から、魅力的な企画が生まれてくることもあるでしょう。
たとえ企画内容がかぶってしまっても、その読み味が独特なものであれば、読者に満足していただけるのではないでしょうか。

個性とはなにか、という問題は非常に難しいものがありますが、小説の場合、「この作家にしかない読み味がある」というのが大きな武器になると思います。
逆に、たとえ企画(設定)が新しく見えても、「どこかで読んだことあるなぁ」というような読み味しかなければ、個性があるとはいいがたいでしょう。

おもしろい読み味の小説がどんどんでてきてほしいなぁと、一読者としても思います。
ラノベはもっともっとおもしろくなれるはずです。

表現の効用

今年からはじめたTwitterで、文体についてつぶやいたので、それに加筆して記事にしてみます。

昔、バトルシーンを書いていてなかなかスピード感がだせず、「そうだ! 接続詞や、てにをはを記号に置き換えて書けばいいんじゃね!?」と思い、「=」や「+」を使って表現してドヤ顔で担当さんに提出したら、「……冲方丁さんのパクリ?」といわれたことがあります。
当時はクランチ文体を知らなかったんです(>_<)

あわてて調べてみたらたしかにクランチ文体に似ていて(ヴェロシティとか)、恥ずかしさで真っ赤になりながらそのシーンを書き直した思い出があります。
担当さんのそういうご指摘は本当にありがたいです。
表現でもアイデアでも他人とかぶってる場合が本当あるから……。

まぁ、いまだったら「この文体は冲方さんのパクリじゃありません! ジェイムズ・エルロイのパクリです!」とでも返して笑い話にできるんだけども。
まだご存じでない方もいるかもしれませんが、冲方さんのクランチ文体の元祖はエルロイなので、ああいう表現が気に入った方はぜひ「ホワイト・ジャズ」もお読みください。おもしろいですよ。
おそらく秋口ぎぐるさんの「並列バイオ」にも影響を与えているはず。

村上春樹さんの文体が好きな人に、リチャード・ブローティガンを勧めたくなるようなものですね。
アメリカの鱒釣り」とか、「愛のゆくえ」とか。
気に入った作家の影響元をたどっていく読書歴も楽しいものですよね。

ちなみに僕が文体に影響を受けた作家は、芥川龍之介からはじまって、京極夏彦さん、奈須きのこさん、秋山瑞人さんときて、そのどれも半端にしか真似できず、三島由紀夫や開高健などを横目に見ながら「とうてい真似できねーよ」と愚痴りつつ、坂口安吾や太宰治あたりならなんとかいけそうじゃね? と不謹慎に思いつつ、でもやっぱり力不足で手に負えず、つぎに横光利一を中心に新感覚派をいろいろと読んでみて、なんとなく肌が合いそうだと思って試していくうちに、「これならラノベにうまく応用できるんじゃね?」と思うようになり、横光のいた時代にはまだマンガやアニメなどの表現が少なかったため、もし自分と同時代に横光が生まれていたら、きっとそういう他分野の表現を小説に活かしただろう、と妄想するようになり(完全な妄想です)、それなら自分がその仕事をやってみよう、と思うようになりました。(長い一文で失礼)

そこで、マンガやアニメなどの表現を分析し、台詞の多重性や、マッチカットやトランジションの手法を、小説のなかに応用するようにしました。
(それらの技法をまとめた記事はこちらから

もっとも、マンガやアニメの表現効果を小説で再現する、というのは実際には不可能ですし、それ自体に大きな意味はありません。そういうのはマンガやアニメで見ればすむことですので。

肝腎なのは、そういう発想を持ってくることで、小説の言葉に新しい切り口やテンポ、つなぎかた、飛躍のしかたを与えること――つまり、「言葉のふるまい方」を新しくすることが重要なのです。

小説は言語芸術なので、そういう「言葉の新しいふるまい方」が命なのだと思います。
マンガやアニメの表現を参考にするのは、あくまでも言葉のふるまい方を新しくするためのきっかけにすぎません。

横光や川端康成などの新感覚は、その言葉の革新を、海外文学や映画からの影響でおこなおうとしたのだと思います。
一般に、彼らの試みは完全に成功したとはいえず、頓挫した――といわれています。
その原因はさまざまでしょうが、横光が書いた、「純粋小説論」などを読むと、新感覚派的な文体を使いながらエンタメ的な長篇を書くという試みが難しいものであったことも、原因の一つかもしれません。
正直、横光の長篇はあんまりおもしろくないんですよね……「機械」とかのほうが、いま読んでも昂奮します。
横光の死後、川端康成の評価が高まっていったのも、川端のほうが長篇を書くのがうまかったためでしょう。

横光の不器用なところは、なんとなく芥川龍之介を彷彿とさせます。
芥川も文体(スタイル)のこだわりが強すぎて、ついに長篇をものにすることができませんでした。
同じく文体にこだわりがあった志賀直哉も、長篇は「暗夜行路」しかありませんし、志賀の作品のなかではとくにできがいいとも思いません。

文体家(スタイリスト)の宿命として、長篇を書こうとするとまごついてしまうところがあるのかもしれません。
(こんなこというと、平気で長篇を書いてる作家は、まるで文体に関心がないかのようにきこえちゃいますが……)
横光が、先輩作家である芥川や志賀を尊敬していたというのは、なんだか示唆的です。

幸いなことに(?)、自分は彼らほど文章感覚が(まるで)鋭敏ではないので、筆は遅いながらも長篇を書くことは(なんとか)できます。
二十一歳で作家デビューしたとき、「三十歳までに自分の文体を身につけよう」と漠然と思い、二十代半ばから必死になって試行錯誤をくり返してきましたが、近ごろはようやく自分のイメージに近いものが書けるようになりました。

あらゆる芸術がそうであると僕は信じているのですが、表現の価値というものは、「問答無用で受け手をぶん殴ってショックを与える」ことに尽きると思います。
その表現された内容が、高尚そうに見えるか、通俗に見えるかは、問題ではありません。
ヒューマニズムやレーゾンデートルをテーマにしたからといって、その表現が受け手にショックを与えられないかぎり、大した価値はないと思います。
平凡な言葉でそれを語るぐらいなら、テレビタレントに語ってもらったほうが、よっぽど影響力があります。

純文学であれラノベであれ、言語表現である以上は、言葉のふるまい方を工夫して読者にショックを与えたいものです。
そのショックになんの意味があるのか?
「生きていてよかった!」という実感を与えることができます。

表現によってぶん殴られる快楽を一度おぼえてしまうと、それ以外のことはどうでもよくなるんですよね(^^)
どれだけ人生がみじめに思えても、その快楽があるだけで自分は十分です。
すばらしい表現に遭遇して、ぶん殴られてショック死することが、自分にとって最高の死に方です。
書いてる人

藍上 陸(らんじょうりく)

藍上 陸(らんじょうりく)
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小説書いてます。

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