「Fate/Grand Order -絶対魔獣戦線バビロニア-」10話の石井俊匡演出①

前回の記事の最後で予告したように、「Fate/Grand Order -絶対魔獣戦線バビロニア-」10話の「こんにちは、太陽の女神」の石井俊匡さんの演出について書きます。

石井さんについては過去に幾度も取り上げました。(最初の記事はこちら
ずっと石井さんを追いかけて我ながらストーカーみたいでキモいですが、演出の勉強をするのは小説を書く勉強にもなっています。
今回は「レイアウト編」と「カッティング編」と記事を二つにわけまして、今回はレイアウトについて思ったことを書いてみます。
例によって自分は映像の素人にすぎないので、まちがったこと書いてたらごめんなさい。

石井さんといえば、人物を横にならべた構図で、人物間の手前や奥に構造物を置くことで、立場の違いや心の距離感を表す演出を得意とされています。
今回もアバンで早速ありました。

バビロニア1

画面の左端に、主人公に宝石で買収されて仲間になった黒髪ツインテのイシュタルが立っています。
一目瞭然、画面手前に置かれた大きな柱によって、イシュタルだけハブられています。
この出だしのアバンはコミカルな雰囲気で、右端の階上の玉座にいるギルガメッシュが左端のイシュタルを見下し、二人で丁々発止のやりとりをします。

上記のレイアウトのまま、けっこう長く二人が言い合います。
カメラワークもなく、左端にハブられているイシュタルがしゃべりながらその場でわちゃわちゃと手足を動かすほかに大きな変化はありません。
途中、イシュタルや主人公などの顔アップのカットが入りますが、ほんの一瞬だけ差し込まれるだけですぐにまたこのレイアウトにもどります。

この話数では全体的にカメラは引き気味で、アニメにしては長く回しているカットがよく目につきます。
なぜそうしているかというと、おそらく今回はコメディ色の強い話数だからだろうと思います。
これぐらい思いきりカメラを引くことで、キャラのコミカルな動きを全身で表すことができますし、ドタバタするキャラクターを突き放して客観的に提示することができます。

笑いの質として、「観客の意識が笑いの場のなかに入っていったほうがおもしろいタイプ」のものと、「観客が客観的に対象を突き放して見たほうがおもしろいタイプ」のものがあると思います。
今回の話数ではとくに、ジャガーマンという世界観クラッシャーな珍獣が仲間になりますので、そのドタバタっぷりにまともに演出が付き合ってしまうとアイタタな感じが強くなりすぎ、観客が白けてしまいます。

それを防ぐために、ロングショットを多用して対象を客観的に見せていると思うのですが、その際の工夫として、レイアウトをあえて平面的にペラくしているようにも感じられます。

もう一度最初の引用画像を見て頂きたいのですが、直線の多いひらけた空間なのにどこにも消失点を設定してないことがわかります。

バビロニア1

手前にある、不自然なまでに大きく映る柱のせいで、かえって絵がフラットに感じられます。
よく見ると、左端にいるイシュタルは、画面中央にいるほかのキャラたちより、ちょっと奥の位置に立っていることがわかります。
人物サイズを較べてみてやっと気づくぐらい、奥行きがあいまいな絵なんですね。
横の構図だとそもそもこうなりやすいんですが、これはコメディのためにあえて狙って奥行きをなくし、平面的な絵面を企図しているような気もします。

石井さんのパースをつけたレイアウトのうまさは、コンテ演出を手がけた「僕だけがいない街」2話の教室のシーンを見れば瞭然です。↓

僕だけがいない街 2話7
(詳しくはこの記事

今回のバビロニア10話でも、イシュタルとギルガメッシュの丁々発止が終わり、ギルガメッシュが少しまじめなモードになると、今度はちゃんとパースのついたレイアウトとなります。↓

バビロニア2

↑横の構図から縦の構図に変わり、床の絨毯が奥に向かって走ることによって遠近感が強調されています。
これにより、さっきまでのコミカルな雰囲気から変化したことを視覚的にも伝えているわけですね。

↓パースはついていませんが、まじめな会話をしているときの「縦の構図」のわかりやすい例です。
バビロニア21

実写・アニメ問わず、縦の構図を撮るときの常套手段である、望遠レンズを使った(ように見せる)カットですね。
望遠レンズの圧縮効果により、手前の人物と奥の人物のサイズがあまり変わらなくなり、奥にある階段が急角度で立ち上がって見えます。
これをディープフォーカスにしてしまうと単なる作画ミスだと思われてしまいますが、ちゃんと望遠レンズの被写界深度を表すためにフォーカスの合っていない部分を撮影処理でぼけさせてますね。

この話数では、おおむね「コミカルなシーンではパースのついていない横の構図」・「まじめな話は縦の構図」という使いわけがなされているように思います。
以下、コミカルなシーンのときの横構図の例を時系列関係なしにいくつか。

↓地面に敷かれた煉瓦がパース線となっていますが、ほとんどわからず、全体の印象はぺらっとしています。
バビロニア4

バビロニア6

バビロニア12

バビロニア13


また、コミカルというわけではありませんが、凶暴性を剥きだしにしたケツァルコアトルが急に緊張感を解いて気の抜けた感じになる場面も、ロングの横構図になります。↓

バビロニア7
バビロニア8
バビロニア9
バビロニア10
バビロニア11


ただ、コメディシーンはすべて横の構図というわけではなく、たとえば下の引用画像は縦の構図となっています。

バビロニア3

パースが発生して遠近感がついたため、奥にいる頭から血を噴いたジャガーマンを、主人公たちが「なんだこいつ……」とちょっと突き放して見ている感じがよく伝わります。
遠近感はついてますが、中央の消失点のところにジャガーマンを置いたベタすぎる一点透視図法なため、凝った感じはなく、かえってチープでコミカルな感じになっています。

構図の縦横を問わず、ロングショットにしているのは、ギャグの担い手とそれに反応する受け手の両者を一つのカットに入れ込むため、という理由もありそうです。
コメディシーンでカットをいちいち切り替えると、うまくやらないとテンポ感が悪くなったり、笑いの「間」を潰してしまうことがあります。
テレビの漫才で、いちいちボケとツッコミをべつべつのカットで示したら、きっとテンポが悪くなってしまって笑えないでしょう。
一つのカットのなかに両者を入れ込むと、アクションとリアクションがシームレスに見せられます。

一方で、カットを切り替えたときのほうがテンポ良くおもしろくなることもあり、次回の「カッティング編」ではそれを考察してみる予定です。

そのほかにも、おもしろかったレイアウトをいくつか。

バビロニア22

↑腰を抜かした兵士をマシュがかばう際、マシュの盾をこのように使ってみせるのはさすが。
また、このアングルを取ることで、このあと右側から駈けつけてくるロリっ子アナや主人公を、自然にフレームインさせられます。↓

バビロニア32


↓また、最初に引用した「柱」のように、マシュの盾を使ってイシュタルだけを疎外するやりかたもあります。
バビロニア23


↓マシュの視線が主人公に注がれているのを強調するため、盾で画面下を隠すやりかた。
バビロニア24

この作品の主人公は一般人なため、みずから敵に向かっていくわけではなく、おもにマシュたちサーバントをバックアップする役目なのでどうしても活躍が地味になりがちです。
ネットでは「主人公はただ立って見てるだけ」みたいなひどい言われようをしているみたいですが、そういう印象を緩和させるため、こうして動揺するマシュが主人公を頼っているように視線を強調したのではないでしょうか。(台詞とか状況自体はシナリオで指定されてたと思いますが)
この際、主人公はマシュを見返すのではなく、敵のいるほうをじっと見つめさせることが大事です。

マシュの視線を使って主人公の存在感をだすやりかたは、0話のコンテ演出を担当した高雄統子さんもされていました。
盾を正面に構えるマシュの手に、横からそっと主人公が手を重ね、マシュがはっとした顔でとなりに立つ主人公を見上げるカットがもう最高なのですが……高雄さんの視線を使った演出は、いつかほかの作品と合わせてまとめてみたいので、詳しくはそのときに。

マシュの盾を「仕切り線」のように使うやりかたはとてもうまいのですが、しかしなんでもかんでもそこに意味を読みとろうとすると誤読するおそれがあります。
たとえば、以下のカット。
バビロニア25

マシュの盾によって左端のアナだけが仲間たちから隔離されているようにも見えます。
しかも、アナと同じ側に敵のケツァルコアトルがいるので、FGOをよく知らない自分などは一瞬、「まさかアナとケツァルコアトルはなにか関係が?」と思ったりもしましたが、これはさすがに深読みのしすぎです。
ケツァルコアトルを含めた状況を示すためにはカメラ位置を低くしてあおる構図しかなく、全員を入れ込むためには、背の低いアナの立ち位置はここしかなかったということなのでしょう。
まさかこのカットだけマシュの盾を消すわけにはいきませんし。
全員の視線が頭上のケツァルコアトルに向かっているので、へんに深読みしない限り違和感はありません。

次に取り上げるのは、台詞と構図を組み合わせたカット。
バビロニア33
「逆説的に、善なる者では敵わないの」

↑イシュタルの「逆説的に」という台詞が始まるのと同時に、この水の表面に映ったさかさまのイシュタルの顔のカットに切り替わります。
台詞の「逆」という部分にかけたお洒落なカット。

↓もう一つ、この話数のラストカットも。
バビロニア31
「ケツァルコアトルと、魂の真っ向勝負だ!」

「真っ向勝負」と言っているのにこれ以外のアングルを取ったら、映像的にべつの意味が発生してしまいます。
ギャグ調になったり、不穏な先行きがにおったり、本心とはべつの台詞に聞こえたり……アングルとショットサイズを変えるだけで、同じ台詞でもまったく違うニュアンスを表現できます。
ここではそういう裏の意図はないので、真正面以外のアングルはありえません。

次に引用するカットは、人物を画面の片側によせて「空き」を作ることによって、そこに人がやってくるのを視聴者に予感させます。
バビロニア26
バビロニア27

右側に映っているロマニと、左側からやってくるダ・ヴィンチはたいてい一緒にいます。
なので、ロマニだけ画面片側に寄っていると、空きスペースにダ・ヴィンチが来るのではないかと視聴者に予測させることになり、実際に動きが起きるのに先行して次の展開を視聴者の内部で発生させることができます。

視聴者にみずから次の展開を考えてもらうことが大切で、それにより作品世界に没入してもらえます。
学校で先生から一方的に問題の答えを教えられるより、自習で問題を解いたほうが長く記憶に残るのと一緒ですね。

↓同じようにフレームインするカット。
バビロニア28
バビロニア29
バビロニア30

演劇では、幕が上がったときにすでに役者が所定の位置に立っていることを「板付き」と言いますが、映像作品でもカットの最初から人物がフレームに収まっている板付き芝居だけでは、緩急のない、動きの乏しいものになってしまいます。
フレーム内部で人物が動くより、フレーム外から内へ入り込んでくる動きのほうが劇的で印象強いものになりますし、フレームの外側にも広い世界があることを視聴者に伝えることができます。(フレームアウトも同様)

北野武監督が昔、雑誌のインタビューで(たしか渋谷陽一さんがインタビュアーだった)、『映画作りはお笑いのコントと同じで、人の出ハケを押さえることが重要だ』という趣旨のことをおっしゃっていました。
漫画ではこのフレームインという動きをおもしろく表現するのが難しいため、漫画を読んで育った作り手は、映像を演出するときに出ハケの見せ方やタイミングに苦労します。
どうしても板付きが多くなり、人が新たにやってくる場面ではすぐにその人の顔へカメラを向けてしまう。
舞台を経験したことのある作り手のほうが、人が現れる(もしくは、人が現れる「予感」を発生させる)ことの演出上の可能性を強く実感しているはずです。

この、フレーム内に誰かがやってきそうな予感だったり、なにかが起きそうな予感を視聴者に持ってもらうためには、ただ当該カットだけを作り込めばいいのではなく、前のほうのカットから伏線を張っておく必要があります。
(ロマニとダ・ヴィンチはセットでいるという情報や、小動物のフォウが草葉から表れたといったことを、あらかじめ前のカットまでに示しておく)

この「予感」は「期待」と言い換えてもよく、これをうまくコントロールすることが、映像に限らずエンタメをおもしろくするための極意の一つなのではないか、と僕は最近思っています。

なにかの雑誌で読んだのですが、脳内麻薬のドーパミンがもっとも放出されるときは、幸せなときではなく、これから幸せなことが起きそうだと予感したときなのだそうです。
文化祭当日より、文化祭前夜のほうがテンションが高い、というやつですね。

おそらくこれは生物が進化の過程で獲得した性質で、子孫を残すためには、交尾ができそうな雰囲気を感じたら即座にドーパミンをドバドバだして反応できるようでなければいけません。
また、肉食動物の襲撃から逃れるためには、実際にライオンが飛びだしてきてから反応しても駄目で、草葉がガサッと鳴ったときや、怪しい体臭が鼻についたときに集中力を高める脳内物質を一気に放出する必要があります。

ホラーではこの原理を最大限に利用し、「来るぞ来るぞ」という、いまにも脅威が現れそうな緊張感を演出して観客のドーパミンやアドレナリンを誘発します。

ホラー以外でこの「予感」を書くのが抜群にうまい作家に、村上春樹さんがいます。
それまで普通に暮らしていた主人公の生活が、ある日をさかいに変容してしまう――氏の書く物語の序盤はそういう「なにかが起きそうな予感」に満ちており、これが人気の秘密の一端なのではないかと思います。

次回は、カッティング編です。
書いてる人

藍上 陸(Ranjo Riku)

藍上 陸(Ranjo Riku)
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1985年生まれ。最近ちょっと病気で体調ががががが。

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