『表現の強さとはなにか?③』物語の自動化に背く

前回の続きです。
三回目は、アニメをとりあげて表現の強さを考察してみます。

創作には「おもしろい」だけでなく「強さ」というべきものがあるのではないか――
それを考えるようになったのは、押井守監督が1994年に上梓された【METHODS ~押井守「パトレイバー2」演出ノート】という本と出会ってからでした。
僕が読んだのはたしか2016年の1月だったかと思います。
長らく絶版で手に入らなかったのですが、復刊ドットコムさんが復刊してくれて、ようやく手に入れることができたのでした。

「METHODS」は、映画「機動警察パトレイバー2 the Movie」のレイアウトを多数掲載し、監督みずからその演出意図を一つ一つ解説した本です。

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「METHODS」はいまでも多くのアニメーターや演出家や美術家に読まれ、影響を与えつづけています。
(なお、同様の本に【「イノセンス」METHODS 押井守演出ノート】というのもあり、こちらは映画イノセンスのレイアウトを解説されています。こちらもおすすめです)

クリエーターが自作の分析を披露するこの手の解説本は、名著「石ノ森章太郎のマンガ家入門」の巻末解説で島本和彦氏が喝破されているように、あらかじめ理論があってそれに沿って作品を作ったというより、作者が自作を読み直したときにそこにある法則性を発見し、それを解説したケースのほうが多いと思います。
石ノ森章太郎であれ押井監督であれ、解説本の中で披露されているロジックは、すべてがすべてあらかじめ考えられていたわけではないでしょう。

どの段階でクリエーターが自身のやりかたを自覚したかはさておき、そこで披瀝されるロジックにはそのクリエーターの考え方の精髄が含まれていることも少なくありません。

以下に、【METHODS ~押井守「パトレイバー2」演出ノート】の45ページ目から、僕が考えを変えるきっかけになった押井監督の記述を引用します。

 一篇の映画を構成するカットの中には、ストーリーの展開に全く貢献しないカットも必要です。敢えて言うなら「物語そのものを疎外し、異化するための意味不明なカットやシークエンスや設定」もまた必要になります。
 全てのカットが〈物語〉を構成する部品として必要十分にその機能を果たし、かつ緊密な計算のもとに並べられているとすれば、それは演出家にとって理想といえるフイルムかもしれませんが、映画を構成するあらゆる要素が、ただ物語を実現するためだけに機能するのであれば、映画は所詮「物語の器」であるに過ぎないことになります。
 実際には映画は見られることで様様な解釈を生み、演出家の思惑を越えた〈映画〉として体験されます。そしてそれこそが〈映画〉という自由で若い形式の特筆すべき長所であり、そして可能性でもあるのです。映画の演出という作業を、その最も本質的な部分まで射程に入れて考えるならば、こうした演出の限界はそのまま演出の可能性でもあります。
 映画は一般にどんな単純な作品でもこの種の読み替えの余地を残すものであり、量産による作品構造の純化や撮影時の偶然、俳優との出会いなど〈偶然〉の介入によって、アクション映画が奇妙に普遍的な世界観を実現するような、そんな幸福な瞬間に出会うことがあります。一方でアニメは一般に実写作品に較べて情報量が圧倒的に少なく、(それゆえに表現や構造をコントロールしやすいというメリットもあるのですが)この種の〈偶然〉と遭遇することは稀です。量産されるTVシリーズに較べて、謂わば一回勝負である映画草品の場合は特に〈偶然〉を孕みにくく、これがアニメ作品が同じ映画の構造を持ちながら「所詮は漫画」であり「底が浅い」という印象をもたらす原因のひとつともなっています。

(中略)

 アニメが、アニメであることの限界を抱えつつ、世界の奥行を実現して〈映画〉に到達する方法とは何か?
 その試みが〔鳥のいる風景〕です。「P2」に登場する鳥たちにはどのような象徴的な意味もありません。強いて言うならば、それはこの作品で描かれた「世界」と「物語」に混入されたノイズであり、記号の体系を掻き乱すための異質な記号そのものに他なりません。本篇の外側にあって物語をアウトレンジし、作品を自律的に完結させようと目論む演出家の意図を長距離から射程に収め、射程に入れるそのことだけで脅威となる厄介な長距離砲。
 それがつまり〝鳥〟なのです。
 鳥をあちこちに出没させる作業にとって、レイアウトという工程が格好であることは言うまでもありません。



かなり長い引用になってしまいましたが、どのセンテンスも押井監督の創作観を現す上でとても重要なものだと思います。
僕はこれを読み強いショックを受けました。

押井監督におっしゃっていることは、実は文学の世界ではしばしば言われることではあるのです。
引用文で監督自身が仰っているように、「異化」というのはシクロフスキーのロシア・フォルマリズムの用語で、日本では大江健三郎氏が「新しい文学のために」でその異化について語り、実作においてそれを効果的に使われています。

また押井監督に書かれた「物語そのものを疎外し、異化するための意味不明なカットやシークエンスや設定」というものについての文学の実例は、たとえばデイヴィッド・ロッジの「小説の技巧」の中で多くの実例が紹介されています。
日本では筒井康隆氏の「創作の極意と掟」において、自作やヘミングウェイなどの作品を引いて、豊富に紹介されています。(有名な「文学部唯野教授」の段階ですでに異化が扱われています)

前回の記事で少し書いた、純文学にまま見られる「よそ見描写」も、異化的な効果を狙ったものもあるでしょう。

僕が押井監督の文のどこに驚いたかというと、自分の中で文学(純文小説や詩など)において使われていた異化を始めとする効果を、「エンタメのアニメ映画」で狙って行っているということにでした。

文学理論は実作者の立場から提唱されるものもありますが、学者や評論家が作り上げたものも少なくありません。
ともすれば理論が難解になりすぎ、実際の創作に使いづらかったり、使ったとしてもそれは理論をわかってる人にしか理解されない作品になってしまうこともあります。
創作をより良いもにするための理論ではなくなっているケースもあるように見受けられるのです。

それを押井監督は商業アニメの中に持ち込みました。
アニメの中に文学的な雰囲気や社会学的な知見を入れようというのは(文学的ってなんだよというツッコミはさておき)、たとえば高畑勲監督の1968年作「太陽の王子 ホルスの大冒険」ですでに積極的に行われていましたが、文学理論をアニメに持ち込んでフィルムを作ろうとしている人は少ないでしょう。

もっとも、押井監督の使う「異化」という概念は、シクロフスキーや大江健三郎氏の使う「異化」とはやや意味合いが異なるように感じます。
本来の異化は、日常的で使い慣れてしまった言葉や概念を、新鮮なものとして読者に受け取ってもらうの方法といえます。
押井監督の場合は、「映画」という映像体験を、視聴者にもう一度新鮮なものとして味わって欲しいという狙いがあるように見受けられます。
当たり前に消費される映画体験の「自動化」から視聴者を逃したい、というわけですね。

もう一度「METHODS」45ページの引用文に戻ってみますと、押井監督は「物語そのものを疎外し、異化する」という風に言葉を使われています。
そのあとの引用文と合わせて推測するに、線上に続いていく「物語」の流れをあえて邪魔するような「異物」を混入することで映画の情報量を増し、ひるがえって視聴者に物語の流れを再考してもらう効果があるのだと思います。
言葉を変えれば、視聴者に映画に対する批評眼を身につけてもらうため、とも言えるかもしれません。

上記引用文の最後に、「鳥をあちことに出没させる作業」というのが出てきますが、パトレイバー2ではさまざまな場所に「鳥」のモチーフが出てきます。
これはこの作品に限らず、それ以前からの押井監督の特徴によく挙げられていて、カルト的な人気のある「天使のたまご」でも鳥が登場しますし、個人的に大好きな「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」でも同様です。

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識者によっては、押井作品によく出てくる「鳥」や「魚」を聖書に登場するモチーフとして象徴的に解釈する方もいるようです。
実際、他作品ではそういった狙いもあると思うのですが、「パト2」に関しては押井監督の言葉に従えば、なんの象徴的な意味も持たず、『「世界」と「物語」に混入されたノイズ』ということになります。

METHODS ~押井守「パトレイバー2」演出ノート】の43ページより。
このレイアウトに見える大きな鳥は、トラックの側面に描かれている。

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鳥のレイアウトだけを見ても、物語を突き放すという押井監督が狙った効果は伝わりづらいでしょう。
実際に「パト2」の映画を観て頂くのが一番よいと思いますが、押井作品とはべつの作品で好個の例がありましたので紹介します。

出崎統監督の1979年作品「劇場版 エースをねらえ! 」です。

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この中で、主人公の「岡ひろみ」と「竜崎麗香(お蝶夫人)」の二人が組んでダブルスの試合をする場面があります。
二人はライバル関係ですので、最初はうまく連繋がとれず相手ペアに押し込まれてしまいます。
ファーストセットを取られてしまったあと、インターバル中に二人はコーチの宗方仁から指導を受けます。
そして再び試合に戻るのですが、そのときコート上空をなんの脈絡もなくヘリコプターが通過します。

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このシーン、最初観たときは本当にびっくりしました。
このヘリコプターはただ意味もなく通り過ぎるだけです。
物語の進展になんの寄与もしませんし、象徴的な意味も読みとれません。
たとえばこのヘリに、試合を中継しているテレビクルーが乗っているのだとすればそこには「物語」に絡んだ意味が発生します。
あるいはこのヘリと試合中のプレーになんらかの関係性(必殺サーブの名前が「ローターブレード・サーブ」とか)があった場合も、ヘリをだすことでそこに象徴的な意味が生まれます。

しかし何度繰り返し見直しても、このヘリの登場は唐突で、それ以降もなんの意味も与えられていない。
しかしそれが逆に、この映画をとても印象的なものにしています。
原作のマンガも読んだのですが、試合中にヘリは一切登場していませんから、これは出崎監督の演出なのはまちがいありません。

この「エースをねらえ!」はスポ根の殿堂に入れられているほどのものですから、ストーリー的には王道で、とくに予想を大きく裏切るような展開はありません。
しかしこの唐突なヘリの闖入によって、映画はとても印象深いものになっています。
観終わってから時間が経過し、ストーリーの流れをほとんど忘れてしまっていても、このヘリの登場はいつまでも記憶に残る方が多いでしょう。
ネットで感想を検索すると、やはりこのダブルスの試合でのヘリに言及している人が何人もいました。

実は、押井監督もこの「劇場版 エースをねらえ!」を繰り返し観て、アニメ映画について勉強したそうです。
情報がWikipediaからの孫引きになって申し訳ないのですが、押井守監督のページの出崎統監督にまつわる項目にそう書いてあります。(ソースの雑誌をチェックしたいけど絶版で手に入らない!)

押井監督は、2018年に上梓した「シネマの神は細部に宿る」の中でも、映画はストーリーではなくディテールが重要である、ということを強調されています。
また、映画とは再会するものである、とも言い、印象的なディテールの作り込みによっていつまでもワンカット・ワンシーンが視聴者の記憶に残り、ストーリーを忘れられても何年もあとになってまた見返してもらえ、そこでまた映画と再会してもらえるとも書いています。
このことから、「METHODS」のころからいまに至るまで、創作に関する基本的な考えは変わっていないものと推察できます。

さて、これまで三回に渡って書いてきたことを前提に、次の最終回では「表現の強さ」とはなにか、現時点での自分の考えをまとめてみます。
書いてる人

藍上 陸(Ranjo Riku)

藍上 陸(Ranjo Riku)
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1985年生まれ。小説家。

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