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マンガ表現の特徴と、ライトノベルの文体論

Twitterでつぶやいた表現がらみのことを、まとめてみます。

マンガという媒体の魅力の一つに、「一気に情報が流れこんでくる」点がある気がします。
本来は一コマずつ順を追って読んでいくべきなのでしょうが、ページをひらいた瞬間、さまざまなコマが怒濤のごとく目に飛びこんできて脳を刺戟します。
このビジュアルの情報量の多さがマンガの特殊性な気がします。絵だけでなく、書き文字や集中線などの効果もそうですね。

見方を変えれば、異なるコマの集合体によって、ページ全体で一つのコラージュ作品を形成しているともいえます。
ためしに、コマを切り抜いて一つずつ順番に見ていくようにしたら、おそらくおもしろさは半減してしまうでしょう。
僕は四コママンガの形式がさほど好きではないのですが(あずまんが大王みたいに好きな作品もありますが)、その理由の一つは、ストーリーマンガと比べて情報の順番が整理されてしまっているせいだろうと思います。
そのぶん、四コマは圧倒的に読みやすいというメリットがあるのですが。

呉智英さんが、「現代マンガの全体像」のなかで、「現示性」と「線条性」というワードでマンガの特性を語っておられますが、個人的にはそこに「氾濫性」とでもいうべきものもある気がします。

マンガを読むとき、コマを順番どおりに追わないで、目立つコマからさきに見てしまい、さきの展開を知ってしまうということがあります。
しかしそれが問題とならないのがマンガのよいところで、すぐにコマをさかのぼってストーリーを理解することができ、コマのあいだを好きなだけ往復することができます。
これは映像とは本質的にちがうところです。

映画やアニメは、基本的に頭から順々にストーリーを追っていく形式です。
いまでこそ、再生機器でシーンを巻きもどしたりストップしたりできますが、本来視聴者は時間にそって映像を受けとるしかできませんでした。
一方、マンガの場合は情報が前後問わずに一気にやってきて、読者が好きなように読み解いていけます。
この点において、マンガとアニメは一見近いようでいて、かなりちがいがあります。

ひるがえって、小説の場合はどうでしょうか。
マンガと同じく、任意でさきの文章を読むことができますが、絵とはちがって理解しやすいとはいえません。
基本的に、順番に読み解いていく「線条性」の芸術なわけですね。

しかしこれは、小説のジャンルや文体にもよって変わってくるかもしれません。
Togetterで、こういうまとめがありました。
あなたはどっち?文章の読み方は人によって違う

このまとめによると、「ブロック読み」や「斜め読み」とでもいうような読み方をされている人がいらっしゃいます。
小林秀雄が、「文学は読むだけでなく、眺めることが大事だ」という趣旨のことを書いておりますが、小説の味わい方として、そういうやりかたもあるということでしょう。

このような読み方をしている人は、最初にざっと文章を目で追って「文章の端々の刺戟」などを楽しみ、そのあとにふつうに読み返してみて、あらためて話の筋を楽しんでいるのかもしれません。
「漠然と文章全体の模様を楽しむ」という読み方は、読書好きなら理解できるのではないでしょうか。

それをさらに推し進めようとしたのが、フォントサイズを大きくしたり、空白行を多用したりするラノベの書き方なのかもしれません。
一部のラノベにある、イラストとの融合を試みるような書き方もその一つでしょう。

自分は小説でフォントサイズを変えたりはしないのですが、その気持ちはわかります。
しかし、うまくやらないと小説の読み味が大味になってしまいがちです。

とかくラノベの文章がバカにされがちなのは、このような事情があるからだと思います。
つまり、ラノベ独特の文体論というものがまだ確立されていない。
世間がイメージする「よい小説の文章」とは、いわゆる純文学的な、線条性を前提としたものです。
しかし、ある種のラノベ作家たちは、そういう線条性を前提とした「純文学的な文章」では不満足なのです。
そういう文体では、自分たちのイメージや「読み味」を表現できないと感じている。

泉子・K・メイナードさんが、「ライトノベル表現論」にて、「ライトノベルは語りから会話・発話へ、描写より演技・実演へという傾向がある。」と書いておられますが、それとも関係しているでしょう。
純文学のように「描写」で示すのではなく、ラノベは現在進行的な「シーン」で示したいのです。

その「シーン」をうまく書くための文体が、業界全体でまだ模索中ということなのだと思います。
それが世間では「稚拙な文章」に思われてしまう原因だろうと思います。
また、中途半端にマンガにすりよっているように見えてしまうのも悪印象につながっているでしょう。

自分は、小説には物語のドラマ性とともに、つむがれる言葉のドラマ性がほしい、と思っています。
キャラクターが冒険をするように、言葉それ自体も冒険していってほしい。
それはきっと小説にしかできないことだと思いますし、ラノベという媒体は、既存の文学とはちがう文体論が成立可能なので、新しい言葉のドラマが作れると思うのです。

ラノベ作家たちがそれぞれの文体論に挑戦するとき、新しい可能性がひらけるのではないでしょうか。

また、表現についての議論が深まらないままだと、どんどん「企画主義」が進行していってしまいます。
売れ線のパッチワークみたいな企画しか通らなくなるおそれがある。
売れ線を狙うのが絶対に悪いというわけではありませんが、もっと表現の観点からおもしろさを追求しないと、読者に飽きられてしまうのでは? という危惧が自分にはあります。

本来、表現と企画は分離できるものではなく、相互に影響を与えあっていくものです。
「こういう表現の読み味を楽しんでもらいたい」という観点から、魅力的な企画が生まれてくることもあるでしょう。
たとえ企画内容がかぶってしまっても、その読み味が独特なものであれば、読者に満足していただけるのではないでしょうか。

個性とはなにか、という問題は非常に難しいものがありますが、小説の場合、「この作家にしかない読み味がある」というのが大きな武器になると思います。
逆に、たとえ企画(設定)が新しく見えても、「どこかで読んだことあるなぁ」というような読み味しかなければ、個性があるとはいいがたいでしょう。

おもしろい読み味の小説がどんどんでてきてほしいなぁと、一読者としても思います。
ラノベはもっともっとおもしろくなれるはずです。
書いてる人

藍上 陸(らんじょうりく)

藍上 陸(らんじょうりく)
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小説書いてます。

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