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表現の効用

今年からはじめたTwitterで、文体についてつぶやいたので、それに加筆して記事にしてみます。

昔、バトルシーンを書いていてなかなかスピード感がだせず、「そうだ! 接続詞や、てにをはを記号に置き換えて書けばいいんじゃね!?」と思い、「=」や「+」を使って表現してドヤ顔で担当さんに提出したら、「……冲方丁さんのパクリ?」といわれたことがあります。
当時はクランチ文体を知らなかったんです(>_<)

あわてて調べてみたらたしかにクランチ文体に似ていて(ヴェロシティとか)、恥ずかしさで真っ赤になりながらそのシーンを書き直した思い出があります。
担当さんのそういうご指摘は本当にありがたいです。
表現でもアイデアでも他人とかぶってる場合が本当あるから……。

まぁ、いまだったら「この文体は冲方さんのパクリじゃありません! ジェイムズ・エルロイのパクリです!」とでも返して笑い話にできるんだけども。
まだご存じでない方もいるかもしれませんが、冲方さんのクランチ文体の元祖はエルロイなので、ああいう表現が気に入った方はぜひ「ホワイト・ジャズ」もお読みください。おもしろいですよ。
おそらく秋口ぎぐるさんの「並列バイオ」にも影響を与えているはず。

村上春樹さんの文体が好きな人に、リチャード・ブローティガンを勧めたくなるようなものですね。
アメリカの鱒釣り」とか、「愛のゆくえ」とか。
気に入った作家の影響元をたどっていく読書歴も楽しいものですよね。

ちなみに僕が文体に影響を受けた作家は、芥川龍之介からはじまって、京極夏彦さん、奈須きのこさん、秋山瑞人さんときて、そのどれも半端にしか真似できず、三島由紀夫や開高健などを横目に見ながら「とうてい真似できねーよ」と愚痴りつつ、坂口安吾や太宰治あたりならなんとかいけそうじゃね? と不謹慎に思いつつ、でもやっぱり力不足で手に負えず、つぎに横光利一を中心に新感覚派をいろいろと読んでみて、なんとなく肌が合いそうだと思って試していくうちに、「これならラノベにうまく応用できるんじゃね?」と思うようになり、横光のいた時代にはまだマンガやアニメなどの表現が少なかったため、もし自分と同時代に横光が生まれていたら、きっとそういう他分野の表現を小説に活かしただろう、と妄想するようになり(完全な妄想です)、それなら自分がその仕事をやってみよう、と思うようになりました。(長い一文で失礼)

そこで、マンガやアニメなどの表現を分析し、台詞の多重性や、マッチカットやトランジションの手法を、小説のなかに応用するようにしました。
(それらの技法をまとめた記事はこちらから

もっとも、マンガやアニメの表現効果を小説で再現する、というのは実際には不可能ですし、それ自体に大きな意味はありません。そういうのはマンガやアニメで見ればすむことですので。

肝腎なのは、そういう発想を持ってくることで、小説の言葉に新しい切り口やテンポ、つなぎかた、飛躍のしかたを与えること――つまり、「言葉のふるまい方」を新しくすることが重要なのです。

小説は言語芸術なので、そういう「言葉の新しいふるまい方」が命なのだと思います。
マンガやアニメの表現を参考にするのは、あくまでも言葉のふるまい方を新しくするためのきっかけにすぎません。

横光や川端康成などの新感覚は、その言葉の革新を、海外文学や映画からの影響でおこなおうとしたのだと思います。
一般に、彼らの試みは完全に成功したとはいえず、頓挫した――といわれています。
その原因はさまざまでしょうが、横光が書いた、「純粋小説論」などを読むと、新感覚派的な文体を使いながらエンタメ的な長篇を書くという試みが難しいものであったことも、原因の一つかもしれません。
正直、横光の長篇はあんまりおもしろくないんですよね……「機械」とかのほうが、いま読んでも昂奮します。
横光の死後、川端康成の評価が高まっていったのも、川端のほうが長篇を書くのがうまかったためでしょう。

横光の不器用なところは、なんとなく芥川龍之介を彷彿とさせます。
芥川も文体(スタイル)のこだわりが強すぎて、ついに長篇をものにすることができませんでした。
同じく文体にこだわりがあった志賀直哉も、長篇は「暗夜行路」しかありませんし、志賀の作品のなかではとくにできがいいとも思いません。

文体家(スタイリスト)の宿命として、長篇を書こうとするとまごついてしまうところがあるのかもしれません。
(こんなこというと、平気で長篇を書いてる作家は、まるで文体に関心がないかのようにきこえちゃいますが……)
横光が、先輩作家である芥川や志賀を尊敬していたというのは、なんだか示唆的です。

幸いなことに(?)、自分は彼らほど文章感覚が(まるで)鋭敏ではないので、筆は遅いながらも長篇を書くことは(なんとか)できます。
二十一歳で作家デビューしたとき、「三十歳までに自分の文体を身につけよう」と漠然と思い、二十代半ばから必死になって試行錯誤をくり返してきましたが、近ごろはようやく自分のイメージに近いものが書けるようになりました。

あらゆる芸術がそうであると僕は信じているのですが、表現の価値というものは、「問答無用で受け手をぶん殴ってショックを与える」ことに尽きると思います。
その表現された内容が、高尚そうに見えるか、通俗に見えるかは、問題ではありません。
ヒューマニズムやレーゾンデートルをテーマにしたからといって、その表現が受け手にショックを与えられないかぎり、大した価値はないと思います。
平凡な言葉でそれを語るぐらいなら、テレビタレントに語ってもらったほうが、よっぽど影響力があります。

純文学であれラノベであれ、言語表現である以上は、言葉のふるまい方を工夫して読者にショックを与えたいものです。
そのショックになんの意味があるのか?
「生きていてよかった!」という実感を与えることができます。

表現によってぶん殴られる快楽を一度おぼえてしまうと、それ以外のことはどうでもよくなるんですよね(^^)
どれだけ人生がみじめに思えても、その快楽があるだけで自分は十分です。
すばらしい表現に遭遇して、ぶん殴られてショック死することが、自分にとって最高の死に方です。
書いてる人

藍上 陸(らんじょうりく)

藍上 陸(らんじょうりく)
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小説書いてます。

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