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アキハバラ∧デンパトウ・第1回解説

アキハバラ∧デンパトウ (GA文庫)
藍上 陸
れい亜 (イラスト)
SBクリエイティブ


これより、12回にわけて「アキハバラ∧デンパトウ」の自作解説をおこなっていきたいと思います。
あまり細かくなりすぎないようにしたいのですが、きっといろいろと話が脱線することでしょう。
小説の解説にからめて、いまの自分の創作観を語ってしまおうと考えているからです。

説明のため、ほかの作家や作品を引き合いにだすこともありますが、ご容赦ください。
故人の名前については敬称をつけず、存生の方には「氏」をつけております。


――――――――――――――――――――――――――――――
  電波塔から靴をこめて
 その季節は萌黄色の子犬。
 春が、しっぽをふってはしゃいでいる。
 生きのいい陽射しと、気まぐれな風が、懐くように少女の体をつつきまわしていた。
「ん~……こっちの世界の春も、二度目かぁ。」
 鉄骨のへりに腰かけた少女が、心地よさそうに四肢をのばす。
 その長髪が風によって前へなびき、その横顔を覆い隠している。

――「アキハバラ∧デンパトウ」3P――
――――――――――――――――――――――――――――――

一行目の「電波塔から靴をこめて」という見出しは行頭二字さげで、フォントを変えてあります。
本作では「一章」というような章を立てずに、シーン(やシークエンス)ごとに小さく区切っていく構成なので、このように表記しています。

これは雑誌の記事の書き方を参考にしました。ファッション雑誌などでは、一行空きごとにこのように細かく記事が分割されているのをよく見かけます。
本作でも、雑誌を読むような気軽さで一つ一つのシーンを読んでいただきたいと思い、このようにしました。

本文に入って、「その季節は萌黄色の子犬。/春が、しっぽをふってはしゃいでいる。」というでだしは、隠喩と擬人法的な方法が重なるため、面食らう方もいらっしゃるかもしれません。
このような表現は、大正時代に流行した「新感覚派」と呼ばれる作家たちがめざしたものに近いと思います。
新感覚派の代表的な作家に、横光利一、川端康成、片岡鉄兵、中河与一、稲垣足穂らがいます。

私は新感覚派のなかでは横光利一が好きで、影響を受けております。
横光でいえば、「頭ならびに腹」という短篇の冒頭、「真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で馳けてゐた。沿線の小駅は石のやうに黙殺された。」という表現がまさに新感覚派の代表的な表現です。
大正時代はこういう表現が斬新だったらしく、そのぶん既成文壇からの反発も大きかったようです。

本文にもどりまして、「その長髪が風によって前へなびき、その横顔を覆い隠している。」という表現は、カメラワークを意識したものです。読者(カメラ)から見て、この少女(ペンネ)は横向きに鉄骨にすわっていることを示しています。

ここはヒロインのちょい見せのシーンで、二ページほどで早く本来の主人公の視点に移る必要があったため、あえて細かく描写せず、「髪がなびいて顔を隠している」という不可思議な印象を読者に与えたいと思いました。

当初は、このあとでてくるカモメの視点をとって、空を飛ぶようにペンネと電波塔のまわりを螺旋状にぐるぐるまわりながら映像的に描写していくというやり方も考えたのですが、やりすぎだろうと思ってやめにしました。

シーンの映像性をとらえるのが抜群にうまい作家に、秋山瑞人氏がいます。
たとえば「イリヤの空、UFOの夏」の一巻冒頭のプールのシーンだけを見ても、氏がいかに鮮明に映像を思い浮かべて表現しているかがわかります。
アニメ制作でいうところの「レイアウト」をきっちりと切って、キャラと背景の位置関係などをしっかりと頭に入れ、演出しているのだと思います。

ほかに、映像的な文章といって思い浮かぶのが、夏目漱石です。漱石の生きた時代はまだ映画の黎明期だったのですが、不思議と漱石の小説には映像的な表現がでてきます。たとえば「」の冒頭などに、意識的な映像的な演出の一端がうかがえます。
漱石がこのような表現を獲得できたのは、英文学の研究者としてディケンズなどの小説を読んでいたためかもしれません。
ディケンズは十九世紀の作家で、そのころはまだ映画がなかったにもかかわらず、小説の描写にカメラワーク的なものがあると評されることがあります。

また、映像的な表現といえば、横光の「ナポレオンと田虫」の冒頭が有名ですし、同じ横光の「」という短篇では、一匹の蠅の目にカメラをしこんだように、全篇通して俯瞰的に情景が描写されていきます。

川端康成の代表作「雪国」の冒頭で、電車の窓に映る女性の顔と、外の炎とが二重写しのようになっている描写も、映像的といえるでしょう。

「視覚的な描写」という点では、新感覚派以前の自然主義の作家や、森鴎外、それに志賀直哉を始めとする白樺派にもすぐれた作品があります。しかし、それらは「作中の主人公(や作者)がありのままに見たものを書く」というおもむきが強く、「映像的」とは少しちがう気もします。あくまでも作中の主人公が、五官を通じて主観的に感じとったものが描写されています。

漱石という例外的な作家を除けば、やはり横光をはじめとする新感覚派が、日本ではじめて映像感覚を小説に持ち込んだ作家たちだといえるのではないでしょうか。
彼らが二十代から三十代にかけては、サイレント映画から徐々にトーキーへと移っていく、映画界の黄金時代でありました。それらの新しい映像表現が、当時の作家たちに影響を与えなかったわけがありません。
実際、新感覚派の作家らも映画制作をおこなっています。

新感覚派とメディアとの関係は、十重田裕一氏の論文「横光利一における大正・昭和期メディアと文学の研究」にくわしく書かれてあります。

新感覚派が小説で試みた、突飛な比喩や擬人法、映像を意識したシーン構成、モンタージュを応用したような象徴的な表現などは、いかにも技巧的で、一読しただけではわかりづらいところもありますが、小説独自の楽しさが伝わってきます。

新感覚派は現在ではあまりかえりみられることがありませんが、純文学というより、娯楽小説の手法としてもう一度注目されてもいいのではないでしょうか。
現代風にリファインすれば、可読性を高めたまま小説独自のおもしろさを提示できるのではないかと思います。


――――――――――――――――――――――――――――――
「うりゅ? 見ない子だね。」\食べれるかな?/
 手をのばしてふれようとすると、カモメが『くぅあ!』と鳴いた。
「わっ、ごめんごめん。悪いことしないよ。……こっちの世界は平和で、狩りなんかしなくても食べるに困らないしね。村を荒らす怪物もいないし、魔王もいない。」
 中空にぶらついていた肢(あし)が、ゼンマイの切れたようにぴたりと止まった。

――「アキハバラ∧デンパトウ」4P――
――――――――――――――――――――――――――――――

上記の台詞の\ /を使う書き方は、主副並行会話文というものです。

また、本作では、「 」のなかの台詞の末尾に、句点(。)をつけています。
純文学ではわりと見られるのですが、エンターテイメント系の小説ではなぜかつけないことのほうが多いようです。
純文学系の作家である永井龍男が、「台詞の最後に句点をつけると、どんどん会話がつづいていってしまうような感覚になるので、自分ではやらない」という趣旨のことを述べております。
正直、自分にはその感覚がよくわからないのですが、台詞の末尾に句点をつけると地の文と似た雰囲気になってしまい、ずっとつづいてしまう感じになるということかもしれません。
句点を排除することで、俳句や短歌のように、台詞一つ一つを際立たせようという意識なのかもしれません。(俳句や短歌に句点はつけませんから)

とにかく、多くのライトノベルでは「 」の末尾に句点はつけませんし、私の過去の商業作でもつけていませんでした。
しかし、あるとき藤子・F・不二雄の「ドラえもん」を読み返したさい、台詞の最後に句点をつけているのを見て、おもしろいと思い、自分もそうしてみようと思いました。
ドラえもんだけでなく、小学館のマンガの多くは句点をつけるようです。

台詞の末尾に句点がつくことで妙な味わいが発生する気がします。
ドラえもんが、「きみはじつにばかだな。」などと呆れたようにいうときの、最後の句点が笑えるのです。
また、「!」がつきそうな強い台詞でも、あえて句点で終わらせていたりして、そこがまたとぼけた味わいがあります。

これを参考にして、本作では独立した台詞の最後に句点をつけていますが、\ /でくくられたサブの台詞や、「 」であったとしても地の文のなかに入れ込む場合などは、句点はつけません。

組版の一貫性を考えると、地の文のなかの「 」にも句点をつけたほうがいいかなとも思ったのですが、「文字の組方ルールブック―タテ組編」という本を読んでいたら、「地の文のなかにカッコを入れる場合は、末尾に句点はつけないほうが読みやすい」という趣旨のことが書かれてあったので、そのようにしました。
また、「テンとマルの話」という本も参考になりました。

台詞の話題を終えて、上記引用文にもどります。
カモメが登場しますが、これはペンネの話し相手の役割です。ペンネ一人だけだと、独り言をぶつぶついうだけの危ない子になってしまいますので。
当初はカモメではなく、ハトにする予定でした。しかし調べてみると、ハトは飛行能力が低く、電波塔の上のほうまで飛んでこられないことがわかりました。カラスであれば上昇気流に乗って数百メートル舞いあがることができるようですが、黒いカラスだとこのシーンの牧歌的なイメージが崩れてしまいます。
調べた結果、カモメであればこの高さまで飛んでこられることがわかりました。
カモメは海辺にいるイメージですが、わりと内陸のほうにもやってくるようです。上野公園の不忍池にもカモメが飛来するそうです。

引用文の最後の行に、「肢(あし)」という表記がでてきますが、これはとくに女性の脚部を強調したいときに使っております。
日本語の標準的表記では、足首から下の部分は「足」と書き、足首から上(もしくは下肢全体)は「脚」と書くことが多いようです。
この表記にのっとってもいいと思うのですが、どうも「脚」という字を見ると、個人的に昆虫の脚をイメージしてしまうんですね。
字面からして、クモの姿が浮かんできます。
女性のあの繊美なイメージと重ならないのです。

「足」という漢字であれば女性の場合でも違和感が少ないので、以前の作品では、下肢全体を指す描写でもあえて「足」と書いていたのですが、校正の方からおかしいと指摘されてしまって、やはり脚と書くしかないのかなと悩んでいました。

ところが、明鏡国語辞典を見ると、「哺乳動物の場合は「肢」、昆虫は「脚」と書き分けることもある。」と書かれてあったので、「よし、これからは女性キャラについては肢と書こう!」となったわけです。

また、細かいところですが、上記引用文の「肢が、ゼンマイの切れたようにぴたりと止まった。」という個所では、現在の日本語では「ゼンマイが」と書くことが多いかと思います。
しかしそれだと、「肢が、ゼンマイが」と重なってしまって少々うるさいので、「ゼンマイの」にしました。

昔の文学――たとえば芥川龍之介の作品では、よくこのように助詞の「が」が「の」になっていたり、「で」が「に」になっていたりします。濁音表記が減らされる傾向にあるようです。
研究者のなかには、「東京生まれの芥川は、強い濁音に聞こえてしまう助詞が生理的にいやだったのでは」と指摘する人もいます。
当時の東京人は鼻濁音でしゃべる人が多かったので、はっきりとした濁音に見えてしまう「が」などが好きではなかったのかもしれません。
昔の文学を読んでいると現在とは少しちがう言葉の使い方が見られますので、勉強になります。


――――――――――――――――――――――――――――――
「あうっ、せ、戦記がっ……わっ!?」
 手足をばたつかせた拍子に、はいていた黒いブーツの片方がすっぽぬけてしまった。
 自由の身となったブーツはとんぼ返りを打って別れを告げると、爪先を頭にしてトンビのように街の底へつっこんでいく。

  受験に落っこちて、いろいろ落ちてきて
 その季節は黄土色の悪魔。
 春が、花粉をふりまいてはしゃいでいる。
 高橋という青年が、JR秋葉原駅の昭和通り口をぬけて青空を見あげた。
「ぶぇっくしょん!」
(ったく……)(春って最悪)(ほんと最悪)(いいことなんて一つも)(花粉が飛んでくるし)(猫は盛るし)(飲酒運転が増えて危ねぇし)(しかも)
 高橋をやさぐれさせている要因が、もう一つあった。
「……はぁ、つぎこそ受からないとな……東大。」

――「アキハバラ∧デンパトウ」4~5P――
――――――――――――――――――――――――――――――

「自由の身となったブーツはとんぼ返りを打って別れを告げると」という表現も、擬人法を使った新感覚派的な表現だと思います。
つぎに「街の底」という言葉がでてきますが、これは横光利一の「街の底」という短篇の題名から拝借しました。

「爪先を頭にしてトンビのように」という切り詰めたいいまわしは、どこか昔風で、自分の文章にしては珍しく気に入っています。
ここではブーツの種類は書かれていませんが、爪先に鉄芯が入っているエンジニアブーツなので、落下するときは爪先から落ちていきます。

また、「街の底へつっこんでいく。」というふうに現在形で終わるやり方は、秋山瑞人氏が効果的に使われている方法です。
「つっこんでいった。」というふうに過去形にしてしまうと、ここで一区切りついてしまい、つぎの展開につながりづらくなります。
読者に、「このブーツはどこへ落ちるんだろう?」と興味を持ちつづけてもらいたいので、「つっこんでいく。」と現在形で締めています。

一行空きを挟んで、視点人物が変わって、主人公の「高橋」が登場します。
企画段階から、彼は電波塔の住人たちから「千葉の浪人生→チロ」というニックネームがつけられることになっており、プロットではずっと「チロ」とだけ書いていたのですが、電波塔の住人たちと出会う前は本名で書かなければいけないと気づき、名字だけでもつけることにしました。
なるべく無個性にしたかったので、日本人で名字の多い「高橋」にしました。
「佐藤」という名字も日本人に多いのですが、担当さんの名字が佐藤さんなので、高橋にしました。

「その季節は黄土色の悪魔。/春が、花粉をふりまいてはしゃいでいる。」という表現は、いうまでもなく冒頭の「その季節は萌黄色の子犬。/春が、しっぽをふってはしゃいでいる。」という文章と対になっています。
また、そのつぎの行の「青空を見あげた。」という表現も、ペンネの表現と対になっています。
電波塔の高いところにいて地上を見おろしているペンネと、地上を這うようにして空を見あげる高橋とを、対照的に書いています。
また、下記のように、

(ったく……)(春って最悪)(ほんと最悪)

という具合に( )が連続して書いてあるのは、「泡状内言法」と個人的に呼んでいるやり方です。
こういう書き方はたぶんほかにだれかやってるとは思うのですが、自分が勉強不足のせいか、意外とまだ見かけたことはありません。
(※この文を書いたあと、筒井康隆氏の「エディプスの恋人」という作品で、超能力者の主人公が、他人の心を読むときなどにこの書かれ方をしていることを知りました。新しいことをしようとする作家たちの前にMMRのノストラダムスのように立ちはだかるのが筒井康隆氏という作家です)

上記引用文のあと、秋葉原にある電波塔の説明があるのですが、あまり具体的に説明しないようにしました。
なにしろ「電波塔と超高層ビルを組み合わせて運用する、全高一キロの構造物」というありえない設定のシロモノですので、細かく書けば書くだけありえなさが際だってしまいます。
つっこまれて困るところはさらっと流すという、ずるい大人のやり方です。


――――――――――――――――――――――――――――――
「よし。やるぞ。任務を果たして、つぎこそ東大に合格す……る? ん? だ?」
 なにかいやな予感に襟足を引かれ、高橋は空を見あげた。
 はるかなる電波塔の尖端が銛となって、太陽という獲物をつき刺している。
 そのウニめいて棘だった光のなかから、一点の黒いなにかが姿をあらわした。
 太陽の黒点がぽろりと落ちたように。
「……なんだ、あれ、」\ゆーふぉ?/
 と、思っているあいだにも、それはみるみる大きくなっていく。
 高橋めがけて落ちてくる、落ちてくる。
「うぇらっ!?」
 裏声になって手をかざし、前かがみにしゃがみこんだつぎの瞬間――
 その黒い物体は、高橋の頭のあった場所を通過した。
 すぐ背後で、ツルハシをふりおろしたような固い激突音がはねた。
「…………」しゃがんだまま怖々とふり返る。
 数メートル後ろの歩道に、砲弾のように黒光りする物体が転がっていた。
「なっ、まさかっ、テロ!?」
 ――その声がカメラのシャッター音となり、行き交う人びとが足を止めた。
 世界から動きと音が消え去り、大判の街頭写真(スチール)ができあがった。
 数秒間、人びとは薔薇のように大げさな身ぶりで写真に納まっていたが、やがて内側から印画紙を破って歩きだし、辺りは元のせわしない喧噪に引きもどされた。

――「アキハバラ∧デンパトウ」7~8P――
――――――――――――――――――――――――――――――

冒頭でペンネが落としたブーツが、ここであらわれます。
ここら辺、ちょっと比喩が多いかもしれません。
文体的な興味が強すぎる嫌いがあります。(担当さんにも指摘されました)
「世界から動きと音が消え去り、大判の街頭写真(スチール)ができあがった。」というのは、ヌーベルバーグの映画などで使われるストップモーションのイメージです。


――――――――――――――――――――――――――――――
(とりあえず、電波塔の関係者に心当たりをきいてみるか)
 そう思ったとき、黄土色の悪魔によってまた粘膜を攻撃された。
「ふぇ…ふぇえ、~~~~~~っ、」

  コンビニ筋肉
「~~~~へっくしゅん!」
 店に入ったところで盛大にくしゃみをし、顔をあげたときにそれはあらわれた。
「ハッハッハ! よくきた青年! なんにするかネ!」

――「アキハバラ∧デンパトウ」10~11P――
――――――――――――――――――――――――――――――

上記引用文の、くしゃみによって場面転換に連続性を持たせる方法は、「ステープリング・テクニクス」と私が呼んでいる一連の手法のうちの、「動作跨ぎ法」に分類されるものです。


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 筋肉むきむきの二メートルはあろうかという顔の濃い五十路絡みの店員――それだけならまだいい。問題は恰好だ。マドラスチェックの派手なエプロンをつけているのだが、その下は裸だった。エプロンから胸毛がもりもりと覗いている。
「あの……なんで裸なんすか?」
 怖々たずねると、店員が太い眉をハの字にして、心外そうに肩をすくめ、
「ちゃんと着てるヨ?」\なにいってるんだネ?/
「あきらかに裸だよ!」\一一〇番レベルだろ!/
「そんなことないサ。ほら、ちゃんとはいてるだろう?」
 店員がエプロンの裾をたくしあげ、下半身をご開帳した。
「うわぁああああああ!」
 鍛えあげられた毛むくじゃらの脚と、赤いブリーフパンツをばっちり拝むことができた。
 店員がエプロンをたくしあげながら、うれし恥ずかしげにヒゲ面をぽっと赤くさせ、
「ボディビル用ブリーフだから恥ずかしくないのサ……」
「だれが得すんだよこの展開!」

――「アキハバラ∧デンパトウ」12P――
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このシーンは「番人ダブル・バイセップス!バリバリキレテル!Oh!デカイ!ナイスバルク!!」という長い名前のキャラが登場するシーンです。

主人公がヒロインと出会う前にこんな濃いおっさんと出会っていいものかどうか迷ったのですが、こういうキャラが好きなのでだしてしまいました。
私としては、こういうキャラは衛藤ヒロユキ氏の「魔法陣グルグル」の影響だと思います。
小学四年生のときからくり返し読んできた、一番好きなマンガです。

引用文の中頃にある、

「ちゃんと着てるじゃないか。」\なにをいってるんだい?/
「あきらかに裸だよ!」\一一〇番レベルだろ!/

という二人の台詞は、互いに主台詞と副台詞でいい合う形になっています。
主副並行会話文は一人のキャラだけが使うのではなく、こういう使い方のほうが楽しくなる気がします。


――――――――――――――――――――――――――――――
 げんなりした。つまりこれからこの筋肉と同じマンションで暮らすことになるわけで、叔父から託された〝役目〟にも関わってくるということだ。

――「アキハバラ∧デンパトウ」14P――
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「この筋肉」とありますが、これは換喩というレトリックです。
ざっくりいうと、「部分」でもって「全体」を示す比喩の一種です。
明鏡国語辞典にある例を見ますと、「二本差し」という言葉で武士を示したり、「金バッジ」で国会議員を示すこと、などと書かれてあります。
いいかえれば、「あだ名」といってもいいかもしれません。
日常生活でも、眼鏡をした人のことを指して「あの眼鏡が」といったりします。
「あのハゲが」というのは絶対にやめましょう(真剣)。

上記引用文も、本来であれば「この筋肉のついた男」とでも書いたほうが正確なのでしょうが、「筋肉」という部分だけを示すことで、「番人=筋肉がすごい」ということを読者に印象づけることができます。

換喩は、使い方によっては知的な印象やスタイリッシュな印象を与えられますので、私としてはもっと使いたいと思っているのですが、意外と使い方が難しく、へたな使い方をすると、校正の方に誤脱ではないかと指摘されたりします。

この換喩の魅力的な使い方が、「桜Trick」というアニメにありました。
このアニメは、しばしば演出の一環として、それぞれのキャラを象徴する小物などのショットをインサートすることがあります。
たとえば「園田優」というキャラの場合、ツインテールを縛っている髪飾りの花が、たびたび大写しでインサートされます。

桜Trick換喩②
桜Trick換喩③


一話のAパートで、園田優が、教室の後ろに席にいる「南しずく」というキャラの元へ駈け寄っていくシーンがあります。
しかしこのとき園田優自身の絵は描かれず、髪飾りの花の絵のみがぴょんぴょんと跳びはねて向かっていくという演出がおこなわれています。

桜Trick換喩


「桜Trick」の原作マンガにはこの手の演出はなかったので、監督の石倉賢一氏のアイデアでしょう。
まさに映像による換喩的表現といえると思います。

なお、石倉氏は、大沼心監督の「ef - a tale of melodies.」の9話において演出を担当されておりますが、ここですでに同様のテクニックを使っておられます。(絵コンテは森義博氏)

ef a tale of melodies 9話の眼帯キャッチ①
ef a tale of melodies 9話の眼帯キャッチ②
ef a tale of melodies 9話の眼帯キャッチ③


眼帯をつけた「新藤千尋」があらわれるさい、さきに眼帯だけのカットがインサートされ、そのあと本人があらわれるという演出がおこなわれております。
これも映像による換喩的表現といえるでしょう。


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 番人が後ろで、別れの挨拶のつもりなのか「ダブル・バイセップス!」と吼えて、笑顔でガッツポーズをとって力こぶをふくらませたが、いっさい無視した。

  シャツの下の神秘
 長さ&速さ日本一、と謳われるエレベーターに乗って、最上階でおりた。
 冷色のリノリウムが通っており、左右に部屋がならんでいる。
 静かだ。物音一つない。地上八〇〇メートルのここは、街の喧噪とは無縁だ。空に近いゆえの乾いた寂寞、というより、どこか深海のような沈々と息詰まる静けさだった。
 海底を這うアンコウのようにもぞもぞと通路を進んでいく。

――「アキハバラ∧デンパトウ」15~16P――
――――――――――――――――――――――――――――――

上記引用文の途中に一行空きがあり、それによって場面転換をしておりますが、ここではステープリング・テクニクスは使われておりません。
シーンに「落ち」がついた場合は、一行空きを挟んで、ふつうに場面転換をしてつづけたほうが効果的だと思います。
ステープリングしてしまうと、なんらかの連続性が保たれてしまうため、「落ち」た感じがしなくなってしまいます。

また、今作では、比喩表現に「海」や「水」にまつわるものを意識的に多く入れています。
舞台が電波塔という高いところなので、あえてそれとはかけ離れた海の比喩を持ってきて、ギャップを狙いました。
また、電波塔の住人がどれも変わった人ばかりなので、からっと乾いた感じではなく、深海のように得体のしれない感じや、ぬめぬめした生臭いイメージを醸したいと思いました。


――――――――――――――――――――――――――――――
「――んしょっ。」
 力み声とともに、窓枠の上のほうから、逆さまの女性の顔がにょきっと出現したのだ。
 長い髪を筆のように垂らし、丸々とおでこを覗かせて「う?」と通路の高橋を見やる。
 目と目が、ぱちりと合った。
「うゎぁああああああ!?」
 完全なホラーである。地上八〇〇メートル地点の電波塔の外壁に、髪の長い女がヤモリのように逆さまに張りついてなかをうかがっているのだ。
 高橋はブーツと原稿を落として、尻餅をついた。
「あっ、それボクんのっ!」
 女性が竹輪のように口を丸くして叫んだ。そして、蛇が樹をおりるように、逆さまのまま器用に窓枠を伝ってにょろにょろとおりてきた。
「よっ、と。」
 最後に、鉄棒競技のフィニッシュのように華麗に通路に着地した。
 逆向きだった長髪が正しくもどり、鳥がおりたって羽をしまうように、ふわりと肩や背中に吸いついた。女性というより、少女と呼ぶべき年頃の子だった。握り拳をぱっとひらいたような睫毛の映えた大きな目が、尻餅をついている高橋をうきうきと見おろしている。
「持ってきてくれてあぃがと! 助かったよー。」
 相好を崩す少女に対し、高橋は引きつり顔で、
「お、お、お、」
「お?お?お?」く、く、く、と少女が首をかしげる。
「おばけ……?」
 指さしながら怖々ささやくと、少女がびくっと背後をふり返った。
「おばけっ!?」
 頭のてっぺんからすっぱい声をだして、ペンギンのようにぱたぱたと手をふりながら「おばけっ、おばけっ?」と恐慌をきたす。

――「アキハバラ∧デンパトウ」16~18P――
――――――――――――――――――――――――――――――


冒頭でちょい見せしたヒロイン、ペンネの登場です。
ペンネのキャラは企画当初はもっとクール系だったのですが、作品を明るくするためそれとは正反対の性格になりました。
こういう天然系のキャラを書くのは、じつはほとんどはじめてで、加減が難しいです。
あまりやりすぎるとあざとくなりますし、ふつうにしすぎるとキャラが立ちません。
でも書いてみると自分としては好みの感じになったので、これでよかったと思います。

「ボクっ娘」というのも自分的にポイントが高いです。
ボクっ娘にもいろいろとタイプがあり、ここら辺を語りだすと何十枚もの論文になるのですが(なんだそりゃ)、このペンネの場合は、ロリ顔でスタイルがけっこういいのに、そういう点に無頓着で主人公を困らせるというタイプです。
ネタバレになるのでまだここでは書けませんが、ペンネの設定的に、「性に無頓着な少年」っぽさがよくでるようにしています。

また、作品の舞台が電波塔なので、ヒロインの登場シーンはその舞台を強調できるようなものにしたいと考えていました。
冒頭で、電波塔の上から靴を落とすのもそうですね。
このシーンでは、電波塔の外壁を伝って、インパクトのある登場にしようとしています。

私はどうも頭が古いらしく、主人公とヒロインが出会うときはなるべくインパクトをだしたいという欲求があるようです。ふつうに出会うんじゃ物足りないと思ってしまうんですね。さらに、できれば出会いは一対一が望ましく、多人数で会うのはあまり好きではありません。場所も特別なところがいい。

ほかの作家さんが書く作品では、物語開始時点であらかたキャラ同士が知り合っているパターンがありますが、自分はああいう形は書きづらいです。
そういうやり方は、早い段階でかけあいが発生するので、スピーディーな感じがでていいのですが、どうしても自分にはうまく書けないのです。
読者として読むぶんには楽しいのですが……頭が固いんですね。
いつかそういう作品にもチャレンジしたいところです。


余談ですが、数ある娯楽作品のなかでも出色の出会いのシーンが、十文字青氏の「灰と幻想のグリムガル」にあります。
これは主人公の少年が、洞窟のなかで目をさますところから始まります。
半分記憶喪失になっていて、どうして自分がここにいるかわかりません。
洞窟は薄暗く、あまり周りが見えませんが、ほかにも多くの人がいるらしく、つぎつぎと声が聞こえてきます。
そしてお互いの名前も立場もわからないまま、とにかく一緒に洞窟を進んでいくという展開になります。

この出だしを読んで、すごくおどろきました。通常の小説の書き方とはまったくちがうからです。
よくある書き方ですと、まず洞窟で目をさました主人公は、ヒロインと出会うはずです。
そこで会話が発生し、「僕は○○、君は?」「私は○○よ。ここは一体どこ?」というように自己紹介をして、互いの状況を確認しあう描写を入れると思います。これによって読者に状況を伝え、感情移入できるキャラをはっきり特定させるわけです。
そのあと、二人で洞窟を進みながら、少しずつほかのキャラと遭遇していくという展開をとると思います。
少なくとも私であればそういう風に書くでしょう。
こういうやり方はわかりやすいのですが、新鮮味がなく、異常な状況に投げ込まれたときの混乱した心理は薄れてしまいます。

一方、「グリムガル」ではいきなり大勢のキャラが登場して、口々に声を発し、だれがだれに話しているかもわからないような混乱した状況が活写されます。
だれの名前も明かされませんし、外見描写も少なく、せいぜい「銀髪の男」とか「派手な格好をした女」といった部分的なことが書かれているにすぎません。
しかし読み進んでいるうちに、だんだん名前もわからないキャラたちの個性が見えてきます。
「この台詞はたぶんあの男だろうな」ということがぼんやりわかってくるのです。
これはすごいことで、並大抵の筆力ではできません。

洞窟を抜けて外にでたあと、ようやく視界がはっきりして人数がわかるのですが、十二人もいます。たしかに、これだけの人数をいちいち冒頭から紹介していったら、それだけで枚数を食ってしまうでしょう。
洞窟を抜けた主人公たちは、赤い月の浮かぶ謎の世界にきてしまったことにとまどいながらも、街へと向かうことにします。ここまでがプロローグに相当する部分です。

おどろくべきことに、この段階ではまだ、文章が一人称か三人称かも判明していません。
頭から十数ページ進んだところでようやく主人公が「ハルヒロ」と名乗り、地の文にも「ハルヒロは~」といった表現がでてきて、三人称の文章だったことが明らかにされます。
このあえて人称をぼかす書き方も、主人公たちの不安や混乱を表現するための工夫でしょう。
「なにがなんだかわからない」という状況がこれほど見事に表現されている例を、私はほかに知りません。

本文の解説にもどります。


――――――――――――――――――――――――――――――
「……こほん、失礼、急のことでびっくり、」
「おばけっ、おばけっ?」ぱたぱた、ぱたぱた。
「してしまって、きみのことをつい、」
「おばけっ、おばけっ?」ぱたぱた、ぱたぱた。
「おばけだと勘ちがいしてしまって、」
 そのとき、壁に立てかけられていた窓ガラスが、倒れてバタンと音をたてた。
「おばけ――――――――っ!!」 
 少女が跳びはね、宙を駈けるようないきおいで高橋の胸に飛びついてきた。
「ふぐっ!?」\河豚(フグ)!?/
 少女のやわらかい部分が、高橋の腹に存分におしつけられた。
 はじめての体験に、高橋は突っ立ったまま鰹節のようにビキビキと硬直した。

――「アキハバラ∧デンパトウ」18~19P――
――――――――――――――――――――――――――――――

ここは、二人の台詞が重なって進む、「クロストーク」が発生しています。
一般的に、台詞(会話)というものは重ならないほうがよいとされています。
ほとんどの映像作品では、「A」と「B」のキャラが会話をするとき、まずAがしゃべったあとに、Bがしゃべりはじめる、という作り方になっています。

Aがしゃべっている途中でBが割り込んでくるという作り方はまま見られますが、その場合、Aはすぐにしゃべるのをやめ、それ以降はBだけがしゃべるという展開になりがちで、やはり台詞はほとんど重なりません。

台詞が重なっていいのは、クラスなどでみんながわいわいとしゃべっているときなどです。
この場合、重なっている台詞群は一種のBGMとなって後景化しますから、台詞内容は問題視されません。
しかし、前景化している主人公たちの台詞が重なるのは、通常の映画やアニメではやってはならないこととされています。

たしかに、クロストークが発生すると、視聴者にはなにをいっているのかわかりづらくなります。
しかし演出によってはクロストークも有効になります。
それを気づかせてくれたのが、ほしかわたかふみ監督の「Candy boy」でした。
このアニメはレイアウトの工夫で魅せる作品ですが、会話の書き方においても工夫がこらされています。

Candy boy3話クロストーク


引用画像は「Candy boy」3話からですが、三人の少女の台詞が重なり合いながら進行していきます。
ふつうならば「A→B→C→……」というふうに順番にしゃべらせると思いますが、ここではクロストークが用いられています。
ぜひ本篇をご覧になっていただきたいのですが、静止画でも三人の口が同時に開いているのが見てとれると思います。

この「Candy boy」ではこういう会話がときおり見られます。上記のようなせわしないかけあいに限らず、ゆったりとした会話の場合でも、部分的に台詞を重ならせることがあります。
通常のアニメを見慣れている者にとっては、この会話が非常に新鮮に感じられます。
エンドクレジットによると、ほしかわ監督自身が脚本を書いているようです。
ふつうの脚本家では、このようなクロストークを書くのは本能的に避けてしまうと思います。
演出家としても、台詞シートの秒数を計算するのにとまどうかもしれません。
脚本・絵コンテ・演出を兼任しているほしかわ監督だからこそ実現したのかもしれません。

毎期多くのアニメが作られていますが、Candy boyのようにクロストークを意識的に取り入れている作品はあまり多くありません。(ほかにプレスコで有名な松尾衡監督の「RED GARDEN」などがあります)
そういうクロストークがフィットする作品が少ないというのもあるでしょうが、ひょっとしたら作り手の「盲点」になっているのかもしれません。
「台詞は一つ一つしゃべらせるものだ」という先入観が作り手にあるのかもしれません。
それは私にもありまして、多いに反省しました。小説といえども、定型的な台詞の書き方に満足していてはいけないと思います。

台詞の書き方については、いろいろと思うところがありますので、以降も折に触れて考えを書いていこうと思います。

蛇足ですが、上記引用文の、

「ふぐっ!?」\河豚!?/

という部分はギャグになっています。ペンネの胸が、河豚のようにやわらかかったと。
また、「少女のやわらかい部分が、高橋の腹に存分に押しつけられた。/はじめての体験に、高橋は立ったまま鰹節のようにビキビキと硬直した。」というのは、高橋の体を硬くさせることによって、ペンネの体のやわらかさをより引き立たせようとしています。

非常に長くなってしまいましたが、一回分の更新の解説は以上です。
小説はここまでで文庫本25Pぐらいの分量ですから、あと十回以上はこの解説をつづける予定です。
小説本篇よりも、解説のほうが長くなるかもしれません。

第2回の解説はこちら。
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藍上 陸(らんじょうりく)

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