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ライトノベルから見た少女/少年小説史

おすすめの本を見つけたから紹介しちゃう!

大橋崇行さんの、「ライトノベルから見た少女/少年小説史」を読みました。
ライトノベルにつながる歴史について語っている本です。

ライトノベル起源論というのは昔からいろいろといわれていて、70年代ぐらいが始まりでは、という意見が多かったようです。
また、「ライトノベル」という呼称自体は90年代のネット発でまちがいないようですが、当時はそれが普及しなかったようです。

著者の大橋さんはそれらの経緯について触れた上で、明治以降の少女/少年小説の歴史を紹介し、それらがライトノベルにつながっていく流れを紹介しています。

これまで、ライトノベルは「マンガ・アニメの後発」とされていましたが、じつはむしろ、明治以降の少女/少年小説が、そのあとに登場したマンガ・アニメに影響を与えていった可能性を指摘しておられます。

今野緒雪さんの「マリア様がみてる」が注目を集めていた時期、吉屋信子の影響についてネットで議論されていたことがありましたが、まさにその種のことがこの本で書かれてあります。

私もかつてライトノベルの起源を探ろうと、江戸時代の黄表紙(戯作)をいろいろ読んだことがあります。……が、自分の読解力ではいまいちよくわかりませんでした。\(^o^)/
やはり明治以降の本でないと、ピンとこないのが正直なところです。

しかし現在、少女/少年小説を読むのは至難です。
単純に手に入りづらい。吉屋信子の作品ですら、一時は手に入れるのが大変だったぐらいです。
私の座右の書の一つである、ならやたかしさんの「ケンペーくん」にも、少年小説の書き手である山中峯太郎について言及があり、私も読んでみようと思ったのですが、現在ほとんど絶版です。

そういう状況のなかでも、大橋崇行さんは多くの少女/少年小説を読まれて、丁寧に歴史を追っておられます。
また、この本は、少女/少年小説という歴史の縦軸だけでなく、「キャラクター」という横軸についても考察しておられます。
いわゆる一般文芸とライトノベルをわけるものはなにかというと、やはり「キャラクター」の存在が大きいと思われます。
それでは「キャラクター」と「登場人物」はどうちがうのか?
大橋さんは、以下のような仮説を提唱されています。


――――――――――――――――――――――――――――――
すなわちキャラクターとは、作中人物を語りやしぐさによってではなく、独白や作中人物どうしの対話という台詞によって造形してきたことにより生じたものではないか。いいかえれば、キャラクターとは視覚的な情報によって規定されるものではなく、作中人物の心を言葉によって余すところなく語り尽くし、読者に示すという表現が様式化した結果、そのような様式に当てはまる作中人物がキャラクターとして認知されてきたのではないかということである。
P217
――――――――――――――――――――――――――――――

従来いわれてきた、イラストなどのビジュアル面がキャラクターを決めるのではなく、「台詞・対話」の書き方によって、「キャラクター」が読者に認知されるのではないか、ということです。


――――――――――――――――――――――――――――――
この問題は、金水敏や泉子・K・メイナードが、日本のまんが・アニメ文化を「役割語」「キャラ語」という観点から論じているものと関係が深い。
 「キャラ語」とは、金水が提唱した「役割語」を発展させた概念である。金水は「おお、そうじゃ、わしが知っておるんじゃ。」「あら、そうよ、わたくしが知っておりますわ。」「うん、そうだよ、ぼくが知ってるよ。」「んだ、んだ、おら知ってるだ。」「そやそや、わしが知ってまっせー。」「うむ、さよう、せっしゃが存じておりまする。」などの例文を挙げ、これらがそれぞれ、老人、お嬢様、男の子、田舎もの、関西人、武士といったキャラクターを想起させる言葉だと規定した。
P218
――――――――――――――――――――――――――――――

このように大橋さんは、「キャラ語」というものに注目しておられます。
キャラクターについて、思いきって台詞(会話)というものに焦点を絞って考察しています。

もっとも、そのあとに、


――――――――――――――――――――――――――――――
キャラクターという存在がどういうものであるかを把握するために有効なのが、金水敏の提案による「役割語」「キャラ語」、さらに本書で示した動きやしぐさ、容姿などに関する視覚的情報を含めた、表現としての総合的な様式性の問題である。すなわち日本のキャラクターとは、日本語文化圏の中で編成されてきた言葉、表現、動作の様式に由来するものであり、その様式を作中人物が表現として伴っているかどうかによって、キャラクターとして認知されるのか、それ以外の〈文学〉や〈芸術〉といった文脈で認知されるのかが決まってくる。
P223・224
――――――――――――――――――――――――――――――

ということも書かれておられますので、視覚情報を否定しているわけではありません。
しかし、「キャラクター」を決定づけるものとして、「日本語が持っている表現上の特性」から生まれた「台詞」こそが重要である、という論旨は一貫しております。

ここら辺は、その筋の研究者や評論家からすれば、異論があるかもしれませんが、実作者としては大いにうなずけるところがあります。
西尾維新さんもなにかの雑誌で、「キャラクターは台詞だ」という趣旨のことをおっしゃって、台詞(会話)の重要性を説かれておられました。

小説は文字で表現するものですから、キャラクターを書こうと思ったとき、どうしても台詞の書き方に注目せざるをえません。
しかし、たとえマンガやアニメというビジュアルで示せるメディアであっても、台詞の書き方が「キャラクター的」でなければ、キャラクターとしては把握されづらくなる、ということを大橋さんは『おおかみこどもの雨と雪』を例にだして指摘しておられます。

実作者として非常に興味をそそられる意見です。
泉子・K・メイナードさんは、「ライトノベル表現論」のなかで、「ライトノベルは語りから会話・発話へ、描写より演技・実演へという傾向がある。」とおっしゃっています。
大橋さんの説はいわば、そのうちの「会話・発話」を重視したものといえるでしょう。
ライトノベルの場合は、しゃべるような一人称で書かれることがありますので、地の文も含めて台詞的になることがあると思います。

おもしろい観点をいただいたので、自分もいろいろと考えてみようと思います。
書いてる人

藍上 陸(らんじょうりく)

藍上 陸(らんじょうりく)
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小説書いてます。

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