「Fate/Grand Order -絶対魔獣戦線バビロニア-」10話の石井俊匡演出②

前回に続いて、「Fate/Grand Order -絶対魔獣戦線バビロニア-」10話(こんにちは、太陽の女神)の石井俊匡さんの演出について自分なりに思ったことを書いてみたいと思います。

今回は編集(カッティング)の妙について。
といっても、レイアウトと違ってカッティングは静止画の引用だけだとカットのタイミングなどがうまく伝えられません。
動画形式で当該個所を引用する手もありますが、著作権的にOKなのか? という不安が。
画像を引用しての批評なら、過去の判例から認められていますが(脱ゴーマニズム宣言事件など)、サイト上に動画を載せて批評することについては果たして判例があるのかどうかわかりません。

たぶん必然性があれば動画引用もOKだと思うのですが、とりあえず今回も静止画の引用でなんとかやってみます。
というかそもそも自分、動画の編集とかほとんどできないから引用しようにもできないし。
そんな自分がカッティングについて語るなどおこがましいですが、幸いなことに『映画の瞬き』というよすがとなる好著があります。

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※自分が読んだのは2008年に出た旧版なので、下記の引用文もそちらからになります。

著者のウォルター・マーチは、『カンバセーション…盗聴…』や『地獄の黙示録』などのフランシス・フォード・コッポラ監督の作品や、ほかにもジェリー・ザッカー監督の『ゴースト/ニューヨークの幻』など、数多くの作品の編集を手がけている編集技師です。

この本のなかでマーチは、人間のまばたきと映像編集との関係について考察しています。

 どうやら瞬きの頻度は、周囲の環境条件よりは、むしろ頭の中における感情や思考の頻度に大きく影響を受けているようだ。(ヒューストンの例のように)顔の方向を変えなくても、瞬きというものは、頭の中で展開されている思考の分離作業を助長するもの、または、無意識のうちに脳が行っている分離作業にともなって勝手に表出するもの、のどちらかではないだろうか。

(※中略)

 もしもその会話が映画の場面だったとしたら、話し相手が瞬きする瞬間は、おそらくカット・ポイントと同じ瞬間になるだろう。その前でもなければ後でもないのだ。
 つまり、人は日常生活の中で、ある考えを心に抱いたり、思考を連ねて連想したりするけれど、新たな思考とそれまでの思考を分離して区別するために、瞬きをしているのである。同じように、映画の中では、ひとつのショットがひとつの思考に相当し、それを分離させて区別させるためのカットが「瞬き」に相当する。カットしようと決めたその瞬間、その編集者は「この思考についてはここで終わりにして、新しい思考をはじめよう」と言っているようなものだ。ここで強調しておきたいことは、カットそのものが「瞬きの瞬間」を作り出しているわけではないということだ。それはシッポが犬を振るわけがないのと同じことである。

映画の瞬き―映像編集という仕事― ウォルター・マーチ(著)/吉田俊太郎(訳)p83~85



このように、マーチは人間のまばたきというものを、「思考や感情を分離するもの」としてとらえ、映画におけるカット・ポイント(編集点)をまばたきのタイミングを想定しながら決めるのだと述べます。
マーチはこの考えを敷衍してこう続けます。

 自分が心地よく瞬きできると感じた個所こそが、カットされるべきだと感じる個所そのものなのである。
 そうすれば、以下の三つの問題も一気に解決する。

①カット・ポイントになり得る数々の個所を見極める(瞬きに注目するとこの作業は容易になる)
②それぞれのカット・ポイントが、観客にどのような効果をもたらせるのかを見極める。
③どのような効果をあたえることがその作品に適しているかによって選択する。
 
 思考の流れ(つまりカットのリズムや頻度)は、その時点で観客が目の当たりにしているものとピッタリ合っていなければならないと私は信じている。「現実の世界」における人間の瞬きの平均回数は、一分につき四回から四〇回とバラつきがある。たとえば口論中の場合だと、一分の間に頭の中には対立する様々な思考が巡るため、瞬きの数は多くなる……ということはつまり、映画中の口論シーンにおける一分間におけるカット数も多くなるべきだ。(注20)実際の話、統計的に見ても、この二つ(現実の瞬きと映画のカット)を比較すると非常に似通っていることが分かる。演出によって多少の違いはあるものの、平均的なアクション・シーンのカット数は一分間二五カット程度なのに対して、通常の会話シーンでは一分間に六カット以下であっても「普通」に(アメリカ映画の場合)感じるものだ。
 いつでも瞬きとピッタリと符号しているべき、おそらくは、ほんの少しだけ先行しているべきではないだろうか。もちろん、あらゆるカットごとに観客が瞬きをしなければダメだと言っているのではない。瞬きするであろうと思われるポイントをカット・ポイントにしなければいけないということだ。ある意味、カットすることで、つまり唐突に視界を変えてしまうことで、編集者が観客に代わって瞬きしてあげているという言い方もできる。ヒューストンの言葉を借りれば、二つのコンセプトを即時的に並列させることで、日常では瞬きすることで行われている作業を代行しているということだ。
 編集者の仕事は、観客の思考プロセスを、予想しながらコントロールすることだ。観客に「乞われる」直前に、彼らの欲している、必要としているものを提示すること、つまり意外性と自明性を同時に兼ね備えていることだ。そのタイミングが遅すぎたり早すぎたりすると問題が生じてくるが、ピッタリ合うか、またはほんの少しだけ先行していると、観客としては、その後で描かれる出来事を、とても自然に、しかもエキサイティングなものとして受け取ることができるのである。

注20
こうすることで観客はその口論に感情的に引き込まれてくれるだろう。反対に、もっと距離をおいて欲しい(観客にその口論をひとつの現象として客観視して欲しい)なら、あえてカット数をずっと少なくするという手法が使えるわけである。

映画の瞬き―映像編集という仕事― ウォルター・マーチ(著)/吉田俊太郎(訳) p90~92



「(カット・ポイントは)いつでも瞬きとピッタリと符号しているべき、おそらくは、ほんの少しだけ先行しているべきではないだろうか。」
「カットすることで、つまり唐突に視界を変えてしまうことで、編集者が観客に代わって瞬きしてあげているという言い方もできる。」

この考え方はとても重要です。
映像というメディアは音楽と同じように時間芸術で、読書とは違い、観客の都合などおかまいなしに一方的に進んでいくものです。
音楽であればその音の連なりの美しさに身を任せればよいのですが、映像作品の場合は視聴者がそれを解釈しながら見ていく必要があります。
視聴者がまばたきをするであろうポイントよりカット・ポイントを遅らせると、映像が間延びした印象となってしまうでしょう。
これは全体のテンポの緩みにつながります。

さて、上記引用文の最後、「注20」には、「もっと距離をおいて欲しい(観客にその口論をひとつの現象として客観視して欲しい)なら、あえてカット数をずっと少なくするという手法」という言葉があります。

それを踏まえて、バビロニア10話の冒頭のカットを見てみましょう。

バビロニア1

前回の記事で書いたように、上記のレイアウトで、左端に立つ女神イシュタルと右端の玉座にいるギルガメッシュの丁々発止が繰り広げられます。
ざっと数えて45秒ほどなので、アニメのカットとしてはかなり長いです。
しかしイシュタルとギルガメッシュの言葉の応酬のなかで、途中一瞬だけほかのカットが差し込まれます。

①イシュタルの顔アップ
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②主人公の藤丸立香の顔アップ
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③イシュタルの顔アップその二
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④祭祀長シドゥリの顔アップ
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どのカットも1秒ほどの短いものです。
どれも顔のアップになっているのは、この短い時間でカット内容をちゃんと視聴者に伝えるためには顔アップが一番適しているのと、「ロングショット→顔アップ」という極端な距離の縮め方で映像にメリハリをつけるためでしょう。

前回の記事で書きましたが、今回の話数でロングショットが多いのは、コミカルなシーンを客観的に提示するためではないか、と僕は考えています。
ロングの絵にしたほうが、滑稽なやりとりを視聴者に客観的に突き放して見てもらえるため、笑いが起きやすい。
それに、キャラクターの全身を使ったアクションとリアクションの両方を、カットを切り替えずいちどきに見せられるため、かけあいのリズムを壊さない。

しかし、さすがにずっと引きの絵のままだと映像的にだれてしまうので、一瞬でもいいからカットの切り替えが必要です。
そこで上記の引用画像のようなキャラの顔アップが差し込まれたと推測するのですが、問題はそのカットをどのタイミングで挿入するか、です。

これはイシュタルとギルガメッシュの台詞の関係もあるので、実際に音つきの映像を観て頂くのが一番なのですが――最初に観たとき、自分は「あえてカットを挟むタイミングをずらしているな」と感じました。

引用画像①のイシュタルの顔は、タイミング的にそれほど違和感はありません。↓

ギルガメッシュ「そして恥知らずにも出戻ってきた、(カット切り替え)そこの女神!(カット戻る)」


しかし、そのあとの②のタイミングは、ちょっとずれている。↓

イシュタル「だぁれがあんたの軍門に降ったかって言うの! 私はビジネスパートナーとして、そこのマスターと契約したのよ! 見てなさい、こいつがすっごいマスターになる(カット切り替え)まで(カット戻る)死のうが爆散しようが私が生き返らせるから!」

イシュタルの台詞の中途で主人公の顔アップに切り替わり、すぐに元のロングのカットに戻ります。
おそらく『映像の瞬き』的には、「私はビジネスパートナーとして、そこのマスターと契約したのよ!」のあとに主人公の顔アップを挟むのが切りが良く自然だろうと思います。


また、③についても、微妙にタイミングをずらしているように感じられる。↓

イシュタル「そしてあんたはこう言うのよ! おお、イシュタルは勝利の女神であったか! よし!  (カット切り替え)我死のう!(カット戻る) ってね!」

②と較べればまだ自然ですが、それでも「我死のう!」のところだけ急に顔アップになり、「ってね!」のところではすでに元のカットに戻っているのはかなり忙しい印象です。
もっと穏当にするなら、「おお、イシュタルは勝利の女神であったか!」のところでカットを切り替え、イシュタルの顔アップで「よし! 我死のう! ってね!」と言わせるやりかたがありそうです。


④についても、シドゥリの顔アップを挟むタイミングはかなり変則的です。↓

シドゥリ「お二人ともどうかそこまでに。なんにせよ土地神が実際に舞い降りるなどこの上ない名誉なこと。(カット切り替え)牧場主(カット戻る)からの被害報告などは水に流しましょう」

それまで黙っていたキャラが急に口を挟むのだから、普通ならば早い段階でその人の顔を映しそうなものです。
「お二人ともどうかそこまでに。」のあとに顔アップを入れるのが一番自然だろうと思います(台詞上もそこで一度呼吸を置いています)。
しかしここではかなり遅れたタイミングでカットが切り替わり、しかも台詞の途中の「牧場主」と言ったあとに元のロングショットに戻っているため、かなり不規則な印象を受けます。

これらは狙ってカット・ポイントをずらしているように見えます。
まさに、『映像の瞬き』にあった、「もっと距離をおいて欲しい(観客にその口論をひとつの現象として客観視して欲しい)なら、あえてカット数をずっと少なくするという手法」に通ずる考え方だと思います。

このカット数を少なくする、というのは、物理的に少なくするというだけではなく、カット・ポイントを瞬きが起きそうな瞬間より遅らせることでもあると思います。
実際に演出家の石井さん(と編集の三嶋章紀さん)がどのような狙いでこうしたかは他人の僕にはわかりませんが、おそらくこの「タイミングがズレた感じ」を狙ってやることで、イシュタルとギルガメッシュの丁々発止を視聴者に突き放して観てもらおうとしたのではないでしょうか。


そうやって「タイミングのズレ」を演出する一方、この話数では、コミカルなシーンにおいて編集による「省略」でテンポの良さを演出しているのが目立ちました。

ジャガーマンが、森の仲間たち(雑魚キャラ)を主人公たちにけしかけるシーン。

ジャガーマンが、雑魚キャラたちを呼ぶ。↓
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ジャガーマンの台詞「ボーイズ&ガールズ! 今夜は寝かさなーい、ぜぇ!」の「ぜぇ!」の瞬間に↓カットへ。
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ジャガーマンが去り、雑魚キャラたちが棍棒を振り上げて一斉に「ウォオオオ!」と雄叫び。↓
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雑魚キャラの雄叫びを唐突に切り、場面転換して王城のギルガメッシュの足の貧乏揺すりのカットへ。↓
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ギルガメッシュにケツァルコアトルの件を報告する主人公たち。しかし雑魚キャラとの戦闘にはいっさい触れず。↓
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アニメに限らず、最近の映像作品ではよくテンポ感が取り沙汰されます。
「あの作品はテンポがいい」とか「あの場面はテンポが悪い」といった声をネットの感想でよく見かけます。
最近知ったのですが、円盤などで自宅で映画を観る人のなかには、動画再生ソフトの機能を使って1.2倍速以上のスピードで再生して観る人もけっこういるのだそうです。
そのほうが時間節約にもなるし、テンポ的にもだれなくてちょうどいいのだとか。
パソコンやスマホでYouTubeの動画などを次々にザッピングしていく時代なので、映像に対する感度や接し方が変わってきているのかもしれません。

じつは自分も、再生スピードこそいじろうとは思いませんが、録画したり円盤を買ったりしてアニメや映画を観るとき、しょっちゅう停止ボタンを押して休憩しながら観るくせがついてしまっています。
一本の映画を見終わるのに一週間以上かかったりします。
こんな記事をブログに載せておいて言うのもなんですが、自分は映像で物語を観ることがそもそもあまり得意ではありません。
自分のペースで読み進めていける小説や漫画のほうがずっと好きです。
こらえ性がなく坐骨神経痛まであるので、三十分のテレビアニメですらきつく、ましてや映画館に二時間すわって映画を観るのはかなりの苦痛を伴います。

また、技術の発達によって映像がどんどん綺麗になり、そのせいでどんな映像にも観客はすぐに慣れてしまい、感動がなくなってしまう――そういうジレンマが映像にはある気がします。
刺激が強いからこそ、その刺激に慣れるのも早く、そうなってしまえば変化のない退屈な代物となる。
「バビロニア」も、たとえば8話の戦闘シーンはとても作画枚数を使って派手に作られているのですが、僕は途中から慣れてしまって感動が薄らいでいることに気づき、自己嫌悪に陥ります。

映像の綺麗さ、派手さだけではなく、カット単位でもシーン・シークエンス単位でも視聴者の予想を裏切るアイデアが必要で、そのためにはモンタージュを含めた編集の妙が求められるのだと思います。

映像におけるテンポの良さとは、あるいは「本来あるべき時間や工程を飛ばし、そのあいだに起きたことを視聴者の想像力で埋めさせること」なのかもしれません。

逆説的ですが、視聴者の脳内で「後戻り」をうまくしてもらったときに、テンポの良い映像ができあがるのです。
なにしろ、人はこれから起きるであろうことをじっと待つより、すぎさった過去に思いを馳せることのほうがずっと速くできるのですから。

上記のジャガーマンの件でも、雑魚キャラたちが棍棒を振り上げて雄叫びを上げた瞬間、視聴者はこれから主人公たちと戦闘が始まると身構えます。
しかし次の瞬間カットが代わり、王城内へと場面が飛ぶ。
その際、ギルガメッシュの貧乏揺すりをアップにしたカットを挟むのは、場面転換を伝えるためにはショットサイズをがらりと変更したほうが誤解が起きず、効果的だからです。
そのあと、ギルガメッシュに経緯を説明する主人公たちのカットはロングの俯瞰になりますが、これもジャガーマンたちとの横構図のカットと明確にアングルを変えたことで場面転換を示しています。

また、この最後のカットで、視聴者は雑魚キャラとの戦闘シーンがカットされたことに気づき、きっと笑います。(僕は大笑いしました)
もしここで、すぐにキャラの顔アップのカットにしてしまうと、映像的な新しい意味が発生してしまい、情報量が増えて笑いの余韻が消えてしまう。
あらゆるアングルのなかで一番客観的な俯瞰カット(しかも主人公たちは背中)にして、ほとんど止めの絵で会話させるからこそ視聴者は安心して笑えるのです。
そしてこのカットによって、先ほどのジャガーマンたちとのあいだに起きたであろう戦闘を視聴者は遡って想像し、そこで起きたことを高速で脳内補完することによって、テンポが良いと感じるようになります。

最後の止めの俯瞰カットだけ見れば手抜きと思う人もいるかもしれませんが、映像演出というものは前後のつながりが大切だということをあらためて考えさせられます。


同じく、編集による省略でテンポの良さを演出しているシーン↓。

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ジャガーマンに向かってイシュタルが攻撃した際、実際に攻撃が当たってジャガーマンが倒れるところを映さず、いきなりジャガーマンの顔アップのカットに飛びます。
カットが切り替わると、ジャガーマンが倒れて強がっている絵になりますが、一見しただけでは普通に立っているようにも見えます。
そして最後のロングのカットで、ジャガーマンの姿が画面から消えて武器のみが屹立して映っていることから、ようやくジャガーマンがすでに倒れているということに視聴者は気づきます。

実際に映像を観て頂くと、物理的なスピードの速さだけではなく、視聴者が「後戻り」して意味を理解することでテンポの良さにつながっていることがわかります。
この「省略された時間」をうまく視聴者に埋めてもらえるようコントロールしないと、単にカットがつながっていない失敗演出となってしまいます。

この「視聴者に後戻りして理解させることでテンポの良さが作られる」というのは、視聴者の能動的な意識を利用するという意味で、前回の記事の最後に書いた「なにかが起きそうな予感」を演出することと本質的に同じです。


小説や漫画と違い、一方的に流れていく映像だからこそ、いかに視聴者に考えて作品世界に参加してもらうかが重要なのだと思います。
アニメの場合は絵コンテという作業が必ず入るため、そこで前もって絵的にそういう計算ができます。
実写で絵コンテを描かない現場の場合、「なにかが起きそうな予感」であったり省略といった演出テクニックを、どの段階で誰が考えているかが気になります。

ハリウッドなどでは専門のストーリーボード(絵コンテ)担当の人を雇うので、プリプロダクションの段階で監督やカメラマンなどを交えてプランを立てられますし、ポストプロダクションでも編集技師は絵コンテも参照しながら編集をおこなっていきます。
近ごろはCGのパートが増えたため、あらかじめ映像を設計するストーリーボードの重要性はますます高まっています。

アルフレッド・ヒッチコックやスティーヴン・スピルバーグやマーティン・スコセッシの撮った昔の映画が、何十年経ってもいまだに新たなファンを獲得し、若いクリエーターに影響を与え続けるのは、ストーリーボードを用意することを厭わず、映画的なテクニックを知悉して縦横に用いているからでしょう。
彼らの良き後継者は、日本においては実写ではなくアニメの演出家に多くいるのではないでしょうか。

小説においても、そういった演出に自覚的でなければならないと僕は思います。
それを考える上で、今回続けて取り上げた「レイアウト」や「カッティング」という映像の概念を研究することは意味があることだと思います。
書いてる人

藍上 陸(Ranjo Riku)

藍上 陸(Ranjo Riku)
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1985年生まれ。最近ちょっと病気で体調ががががが。

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