『表現の強さとはなにか?④』娯楽におけるリアリズム(最終回)

過去に三度、『表現の強さとはなにか?』と題してシリーズで記事を書いてきました。(

この最終回では、これまでのことを踏まえて現時点での自分の答えを書いてみたいと思います。

連載二回目の記事で、

「文章で説明した内容の必然性を、読者に訊かれたら説明できるようでなければならない」

こういう二重の「説明」の意識があれば、よけいなことは書かなくて済むのではないか。(オッカムの剃刀に近い考え)


と書きました。
「描写」や「語り」や「文体」といった偉そうなマジックワードに囚われ、自己満足的でかったるい表現に堕ちないためには、「説明」という即物的な概念で作品を作り上げていったほうがよいのではないか。
この説明を重視する考えは、基本的にはいまでも変わっていません。

しかし、この考えはともすれば「説明しやすいものしか書かなくなる」という危険性を孕みます。
説明しやすいものとは、「流れに従順なもの」と言い換えることもできます。

「おもしろい物語」を作る方法はいろいろあるでしょうが、その一つに受け手に劇的なドラマを体験してもらう方法があります。
ドラマとは、受け手に「必然」を感じてもらうことが必要である、と自分は考えます。
「作者のご都合でこういう展開になった」と思われてしまうとよくありません。
「この主人公がこんな目にあったのは運命的な必然なのだ」と受け手に感じてもらい、それをクライマックスでひっくり返し、説得力のあるラストへ持っていく。
ドラマティックな展開とはそういうものだと思う。

富野由悠季監督の「映像の原則 改訂版」の38ページに、「小さな動機(モチーフ)の積み重ねがストーリー」という見出しで、以下のような文があります。

4873767369
映像の原則 改訂版 (キネマ旬報ムック)

 さて、以上をふまえて映像作品における〝物語〟を規定しましょう。
 物語=情の発展性(〝堕落する〟でも〝する〟という発展性がある)です。

(中略)

 つまり、ベッドシーンの後に、赤ちゃんが生まれればいいのです、という言い方もあります。バトルシーンの後に、ヒーローは勝ったのだが家族はいなくなった、というような発展的描写が必要なのです。ラブシーンの後は、ひとり残ったヒロインが、その相手に対して復讐の刃をみがく、というシーンがなければならないというようなことです。
 そのうえで、物語が寓意(普遍的な意味)を持ち、プロットが観客を感動させればいう事なしということになります。


言うなれば、物語の要素を「だからこうなった」という関係でつなげていけば、それがドラマティックに発展していきやすいのだと思います。

これは因果関係の連鎖ですから、大きな流れとなり、「説明」しやすくなります。
同時に落とし穴もあり、「説明しやすいようなモティーフや物語展開、表現しか用いなくなる」というおそれがあります。

読者の立場から、しばしば「この作品、おもしろいはずんだけどいまいち印象が弱いな」と感じることがあります。
その理由はさまざまでしょうが、「物語の流れが良すぎるがために、読者の印象に残りづらくなった」という面もありそうです。

作品の要素をマクロな構造でもミクロな表現でもすべて説明できるようにした結果、作品が小さく狭くなり、受け手が解釈して膨らませる余地を潰してしまうのです。
これは文学の評論でしばしば言われることで、文学賞の選考委員などもよく選評で「作り込みすぎて読者が小説の中で遊ぶ余地がない」だとか「物語というのはそれだけで通俗的なのだから、いっそもっと娯楽に振りきるか、文学にするのなら作り手や語り手に批評的な視座が必要」というような趣旨のことを言ったりします。

僕は昔、純文学の賞の選評を雑誌で読んで、「物語があるだけで通俗って、この選考委員は物語を馬鹿にしてるのだろうか」と眉をひそめたことがありましたが、きっとそうではないでしょう。
物語(ドラマ)というものの性質が、モティーフ同士が因果関係でつながり発展していくことでカタルシスに到達する性質のものであるため、どうしても流れが良くなりすぎて「自動化」が発生してしまうのです。

自動化されたものは説明がしやすく、説明のしやすさは安易さにつながります。

その自動化を防ぐためには、物語とはべつに、「作り手が説明しづらいもの=受け手が理解しづらいもの」を意識的に入れ込んでいく必要があるのではないか。
容易に自動化されない、作り手の確信でもって行われる、物語とはべつの強固な「こだわり」。
それが「強さ」の源になるのではないだろうか。

その「こだわり」は作家によっては文体なのかもしれない。
己の審美眼に根ざした文章を強固に構築することで、物語の自動化に抗う。
純文学に多いのですが、この場合、文章は徹底的に自己中心的でわがままでなければいけない。読者の便宜を考えると容易に物語の自動化に呑み込まれ、単に読みづらく見所のない作品になってしまう。

志賀直哉の「暗夜行路」を評して、「常軌を逸した居丈高さ」と言った論者がいたそうですが、それはきっと主人公の時任謙作の性格だけではなく、作者の志賀直哉の書きっぷりがあまりにもゴーイングマイウェイだからでしょう。
志賀直哉の作品は全般的にストーリーがはっきりしないものが多く、そういう点ではおもしろいとは言い難いのですが、しかし作品から受ける迫力はすごいものがあります。
ATOKと連繋した「大辞林」で志賀直哉の項目を調べると、「強靭 (きようじん)かつ純粋な自我意識と明晰 (めいせき)な文体によって,独創的なリアリズム文学を樹立した。」とあり、なんだか物は言いようだとちょっと笑ってしまいます。

「作り手が説明しづらいもの=受け手が理解しづらいもの」としては、ほかにも「テーマ」が挙げられると思います。
このテーマという概念もマジックワードで、脚本や小説のハウツー本でもよくテーマの重要性が強調されますが、人によってテーマの定義は微妙に異なっています。
「作者のメッセージ」であったり「物語を貫く概念」であったり「作品を一言で表したもの」であったり「設定の要になるもの」であったり……テーマとコンセプトの違いも曖昧だったりします。

よく映画監督がインタビュアーから「この映画のテーマはなんですか?」と訊かれ、多くの場合は明確に答えないではぐらかすのも、「口でテーマを言うのは野暮だから」という理由も無論あるのでしょうが、そもそもインタビュアーの言っているテーマがなにを指しているのかわからないから、というのもありそうな気がします。

「テーマを口で言ってしまったら作品を見る必要がなくなるじゃないか!」という意見のクリエーターもいますし、「テーマなんて簡単に言えるものじゃない。だから長々と作品にして伝えるんだ」という意見の人もいます。
もうテーマという概念がどういうものかわけがわかりません。

なので、いっそのことテーマの普遍的定義はないと開き直ってみたらどうでしょう。
テーマが作品ごとにまちまちであるように、テーマの定義も作者によってまちまちでいい。
そもそも作品からテーマを切りだしてそれだけ人に伝えたところでどれだけの意味があるかわかりませんし。(批評家の人とかは定義がばらばらだと困るだろうけど)

どのような定義であれ、「テーマ」は「ストーリー」という概念とは完全に同一ではない、ということだけは言えそうです。(完全に同一であればそもそもテーマなんていう概念をべつに用意する必要はない)
ならば、それぞれの定義に従ってそれぞれのテーマを強烈に突き詰めていけば、おのずからストーリーの自動化から脱却できるのではないか。

純文学では、物語を縦につなげていく「だからこうなった」式の展開はそこそこに留め、「そしてこうなった」と横につなげていくやりかたが多いように思います。
因果関係に根ざした縦の流れよりも、並列的な横の広がりを作り、そのぶん各ディテールを詰めていくことで安易な「自動化」から逃れようとしているのです。
その横に広げるときに、不可視の「テーマ」が重要になります。

文学の場合、読み終わったあとに読者が「テーマ」を明確に把握できるような作り方はむしろ悪いとされることが多いです。
どうやら安易に一つの解釈にまとめようとさせない「外し」が大切なようで、そこが文学の呼吸でありおもしろさであるようです。
もっとも、そういう外すやりかたも形式的に硬直化すると、自動化した物語の流れと差異がなくなっていってしまいます。

世界設定(俗に言う世界観)にこだわるというやりかたもあります。
押井監督の映画演出に、BGオンリー(背景のみ)のカットをいくつもつなげたり、カット内にキャラはいてもしゃべらせずにただ黙々と歩かせるだけといったものがあります。
この場合、物語はあまり進展せずに停滞し、それによって世界観を視聴者に提示するわけです。
逆に、キャラに意味のないことを饒舌にべらべらとしゃべらせるやりかたもあり、これはあまりにも多くしゃべらせることで会話の意味を無効化し、むしろ台詞外のことに注意を向けさせるという手法で、先に述べた「無言」の演出と本質的に接近します。

映像はビジュアル媒体ですから、そういう風に人物抜きの表現が成立しますし、漫画においてもたとえば三浦建太郎氏や五十嵐大介氏の作品などは画集としても読めるような美しい世界が展開されます。

世界観という包括的な概念に対し、もう少しミクロな視点からの世界へのアプローチとして、「風景描写」というものがあります。
日本の文学は万葉の時代から花鳥風月を歌ってきました。
現在でも文学においては、風景描写のうまい作家が高く評価されます。
一方で、高見順が「描写のうしろに寝てゐられない」で「自然描写はかなはん」といったように、その手の文章は物語を停滞させ、キャラを立てることにもつながりづらいため、敬遠する読者もいます。
僕自身、文学作品における風景描写はあまり好きではありませんでした。(前回述べたように「描写」という偉そうな概念が暴走していると感じていました)

しかし、「表現の強さ」というものに着目したとき、娯楽小説における風景描写というものは、物語の自動化から逃れることに一役買ってくれるのではないかと思うようになりました。
これまで自分が書いてきたライトノベルでも物語展開の必要に応じて自然や街の風景などを書いてきたのですが、これからは物語展開の必要に応じなくても、積極的にそういう表現をとっていいのではないか、と考えています。
テニスの試合中に、コート上空をヘリがただ飛んでいく様を文章で堂々と書いてもいいのです。

また、世界観を構築するために作中の様々な設定に凝るというやりかたもあります。
奈須きのこ氏の作品のような、設定資料を読んでいるだけでも楽しくなってくる壮大な世界の広がりです。
これはSFというジャンルも大変得意とするところです。

以上、「物語の自動化」から逃れるために、さしあたって「文体」・「テーマ」・「世界観(風景描写・設定)」を挙げました。
もちろんほかにもあるかもしれません。

そしてここが重要なのですが、これらを有効に機能させる(物語の自動化の流れから読者をすくい上げる)ためには、「リアリズム」が必要かもしれないということです。

告白すると、自分はこれまでリアリズムという手垢のついた概念や手法を毛嫌いしてきました。
私小説の文学者たちにしばしば見られる自意識――たとえば滝井孝作が「自分の作品は実体験に基づいているからこしらえものではない」と語ったような自負――を素朴すぎるリアリズムと思い、それが文学の権威主義につながるとして嫌悪してきました。

「見て感じたことをありのまま書くのがよいのだ」という態度を、僕は「田舎の旦那芸」と呼んで馬鹿にしていました。
僕自身が田舎者だからよくわかるのですが、無教養な田舎者は抽象的に洗練された表現を理解しないことが多いのです。
装飾品といったら金やダイヤを使ったキンキラキンのいかにも高そうなもの、豪邸といったら土地が広くて大きな庭と屋敷と立派な門が設えてあるもの、良い絵画とは写真のようにリアルなものを評価するのです。

関川夏央氏の「東と西 横光利一の旅愁」に、横光利一にまつわるおもしろいエピソードがあります。
戦前に横光がヨーロッパ旅行へ行くとき、暑い東南アジア経由の船便なため、麻袋からとったような粗い麻のスーツを仕立てました。
服に興味がある人はご存じでしょうか、麻の服は通気性と速乾性がよく、夏場に最適なものです。
しかし綿以上に皺がつきやすく、近年は改善されたもののかつては色染めも難しく、しかも生地に伸縮性や熱可塑性がないため仕立てるのに高度な技術がいるという通好みな服地です。
船の中で知り合ったイギリス人などの西洋人は、横光のスーツを見て「ホームスパン!」と高く評価していたのですが、補給のために立ち寄ったアジアの港にいる途上国の人間は横光の格好を見て彼の懐具合を心配したというのです。

田舎の若旦那が暇を持て余し、いっちょ文化でも身につけてやるかと絵画などを始めると、いかにも西洋画でございといった「リアルな」風景画を描いたりします。
それを近所の年寄りに見せびらかして、その人たちもその人たちで「おう、まるで写真みてえにうまい絵じゃねえか、若旦那やるねえ」とおだてて、若旦那がやに下がっている……。
落語の「寝床」じゃありませんが、僕は素朴なリアリズム信仰をそういう田舎の旦那芸的なものとして見てきました。
極端に嫌っていたある時期などは、落語家が扇子を使ってこれみよがしにリアルに蕎麦をたぐる仕草すら毛嫌いしていたものです。
それはリアルかもしれませんが、リアルという一種の記号です。
共感されやすいリアルな表現をあからさまにすることで、送り手と受け手とのあいだに生じる「馴れ合い」の雰囲気が鼻につくのです。

しかし、娯楽におけるリアリズムは、そういう受け手との微温的な共犯関係を築くことはありません。
むしろ逆で、物語の流れを塞き止め、意味を氾濫させ、読者の解釈を広げる役割を持ちます。
これは読者に集中と緊張を強いるものです。

娯楽小説、ことに二次元のキャラを前提にすることの多いライトノベルの場合、心地良い物語の流れの中に突如として割り込んでくる各種のリアリズム(文体・テーマ・世界観など)は、「物語」という自己完結性をもった要素と時に激しく対立します。

本来一つのまとまりとして受容される作品の内部で、物語とリアリズムが激しく格闘する――書き手にも容易には「説明」できない「事態」が本の中に出来するのです。

それはときに作品バランスを壊し、傷ともなるでしょう。
しかしその傷を怖れ、慣れた医者の手つきで早々に縫合するのではなく(それは政治的な処世術に等しい)、むしろその傷を肯定的にとらえ、これぐらいの傷がついたほうが物語もリアリズムも男振りが上がって結構だ、と猪武者のように開き直る蛮勇が作家には必要なのではないでしょうか。

連載一回目の記事で、開高健の「完全燃焼の文体」という概念を取りあげました。
コン・ティキ号探検記」や「ちょっとピンぼけ」の文章が、どうして上質な蒸留酒のように胃にもたれずに心地良く完全に消化されていくのか。
それは、作者が自身の体験した「現実(リアル)」としっかり向き合っているからだと思います。
もっとも、「リアリズム文学を作ろう」と変に肩に力をこめてしまっては、リアル自体が記号化され、田舎の旦那芸になってしまいかねない。

物を書くという行為はそもそもが不自然なことです。
自分が体験したことを文章だけに落とし込むことが、いかに無茶な行為か。書き手は常に、体験と想像(イメージ)と文章とのあいだの谷底に悩まされます。

読者に受けるものを書こう、という下心は、おそらく娯楽作家だけでなくノンフィクション作家や純文作家にもある。
だから、いたって即物的にリアリズムに基づいて書く、という態度は、それ自体が作品の中で激しい「対立」を生じさせます。それはそのまま作家の葛藤でもあり、世界(作品内世界や現実世界)における矛盾でもあるのです。

その対立を低い次元で調和させようとするのではなく、無理に抽象的な概念を持ちだして止揚するのでもなく、傷口や矛盾のありようをそのままさらけだして読者に突きつける。
読者はそこでたじろぐのです。
これはただごとではない。容易な理解を拒む、端倪すべからざるなにかがあると。

以上のことが、「表現の強さ」の精髄であると自分は考えます。

なお、これは岡本太郎の「対極主義」の考えにとても近いものです。

抽象と具象、男と女、平和と戦争――そういった二項対立を同一のキャンバスに描き、折衷も止揚もさせず、容易に和合することのない二項の対立の裂け目を生々しく見せつける――

対極主義を簡単に述べると以上のようになるでしょうか。(岡本太郎は「主義」という硬直した言葉を嫌い、後年は単に「対極」とだけ言うようになります)
自分は岡本太郎から多大な影響を受けていますが、体系的に岡本の思想を語れるだけの力をまだ持っていませんので、ここでは対極主義の考えから影響を受けたと述べるに留めます。
(なお、岡本の対極主義については、東京国立近代美術館が公開している大谷省吾氏のすぐれた論文(PDF)が参考になります)

予定調和的な物語の流れに逆らう「破調」を意識的に持ち込むには、歴史ある文学のやりかたを参考にするという手がありますが、しかし僕はむしろ文学以外から示唆を受けたほうがいいと思っています。
文学は文学で、(通俗的とされる)物語とどう付き合っていくのかという点について、あまり深い考察がなされていないように思えるのです。
文学においてはどんな物語が可能なのか、許されるのか、その点に言及する文学者は少なくないのですが、文学はもともと「だからこうなった」式のドラマを意識して作らずとも成立する媒体であるため、文芸雑誌を読んでいても納得できる意見にはなかなか出会えません。

なので、娯楽作家にとって参考になるのは、むしろマンガやアニメやゲームなどの他の娯楽ジャンルのすぐれた作り手たちの知見だろうと僕は思います。
かつてマンガやアニメが小説や映画から大きな影響を受けて成長し、ビデオゲームがマンガやアニメから大きな影響を受けて成長していったように、小説という古いジャンルもまた他のジャンルから学んでいくことが必要だと考えています。
娯楽としての小説をこれからも残していきたいのならば、なりふり構っていられません。

さしあたって、マンガやアニメなどの二次元のキャラを使った表現ジャンルが「リアル」とどう向き合い、表現してきたのかをこれから意識的に見ていこうと思っています。

最後になりますが、これまで考察を進める便宜上、「おもしろい」と「強い」をべつのものとして扱ってきましたが、この二つは実際には分離できるものではなく、相補的なものです。
自分が「表現の強さ」に惹かれ、自分でも実践したいと思ったのも、そういう表現がたまらなくおもしろく、昂奮をもよおしたからに他なりません。
書いてる人

藍上 陸(Ranjo Riku)

藍上 陸(Ranjo Riku)
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1985年生まれ。小説家。

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