2019年夏コミ(C96)の同人誌に載せた原稿について

今年の夏コミ(C96)に、例年通り「ラノベ作家休憩所」というサークルで参加します。
配置は、「コミケ三日目・8月11日(日)・西4地区 "B" ブロック 01b」となります。
今年の同人誌のタイトルは「爽快小説。」です。

告知サイト
コミケWebカタログのサークルページ(※閲覧にはサイトへの無料会員登録が必要です)

当日は自分と大樹連司(前島賢)さんと、たすきさんが売子をやる予定です。

このサークルの発行する同人誌に毎年オリジナルの短編小説を寄稿しているのですが、今年は「セルフスタンドに地上最強の男がやってきた!」というコメディを書きました。
文庫本換算で50Pほどですが、結構おもしろいものが書けたと思っています。

作品タイトルからもわかるようにセルフスタンドが舞台の話で、そこでアルバイトしている主人公の青年のもとに、客として無理難題をふっかけてくる「地上最強の男」がやってくる、という話なのですが、携行缶でガソリンを買うシーンが出てきます。

原稿の執筆時期は5月後半から6月2日までの10日間ほどで、6月中にほかのメンバーの原稿も揃い、7月12日に印刷所に入稿しました。
なので、例の京アニの放火事件(7月18日発生)に触発されてセルフスタンドの話を書いたというわけではありません。
入稿したあとに事件が起きたので、同人誌のあとがきで事情を説明することもできず、ひょっとしたら読者に誤解を与えるかもしれないと思い、この場で説明をさせて頂きました。

京アニの放火事件をネットのニュースで知ったとき、ショックのあまり現実のこととは思われなかった。
本当に、これは悪い夢かなにかなんじゃないかという、足もとがおぼつかなくなるようなふらふらした感覚がいまでも続いています。
まだ京アニから犠牲者についての正式な発表がありませんから長々としたコメントは控えますが、僕が尊敬してやまないクリエーターたちが多く犠牲になりました。
もちろん犠牲者がクリエーターでなかったとしても、なんの罪もない無辜の人びとが殺されていいわけがありません。
しかし今回は僕が若いときからずっと追いかけていて、以前このブログでも取りあげた方々が犠牲になったということで、大変な衝撃を受けました。

あまりにも理不尽な事件に、まだ気持ちの整理がついておらず、犠牲者のご冥福を満足に祈ることすらできずにいます。
ここ最近、珍しくブログ記事を立て続けに書いているのは、創作についてのことを書きながら少しでもなにかをやった気になろうとしているのだと思う。
成松さん(松智洋さん)が急逝されたときもそうでしたが、なにかをしなくちゃ、という焦躁感ばかりがつのります。

『表現の強さとはなにか?②』描写というマジックワード

前回の記事では、小説に限らず創作においては「おもしろさ」のほかに「強さ」というものが必要なのではないか、という話をしました。

ではその「強さ」とはなにか?
そんなもの、ただの抽象的な言葉遊びなんじゃないの?
という自己批判から今回の記事を始めてみます。

僕は長らく、そういう抽象的で偉そうなマジックワードのせいで、創作の本質がわからなくなっているのではないか、と批判的に考えていました。
(いま使った「本質」っていうのもまさに抽象語ですね。日常系アニメに対する批判でしばしば使われる「あのアニメには〝中身〟がない」というのもそう)

文芸誌などで評論を読んでいると、自明なものとして使われている文芸用語の定義が、評者によって微妙に異なっていることに気づきます。

たとえば、「描写」という言葉がありますが、それって一体なんだろう?
きっと作家や評論家によって返ってくる答えはまちまちでしょう。

2006年、僕が二十一歳のころ、デビューをさせてもらったレーベルの編集長から、面と向かって「説明ではなく描写をするべきだ」というお言葉を頂戴しました。
そのときは「ははあ」とうなずいたわけですが、でもそれからしばらく経ったあるとき、ふと「説明と描写ってどう違うんだ?」と思ったわけです。

おそらくその編集長がおっしゃりたかったことは、「読者に臨場感を与えるように書け」ということだったのでしょう。
たんに出来事の羅列ではなく、読者を食いつかせるようにおもしろく書けと。それが描写であり、小説であると。
当時の僕はそのように受け取りましたが、でもそれって「うまい説明」と呼んでは駄目なのだろうかと、いまとなっては思うわけです。
「描写」と言わず、「うまい説明orへたな説明」「効率の良い説明or効率の悪い説明」「省略のある説明or省略のない説明」「五感に訴える説明or五感に訴えない説明」……このように書いたほうがより具体的ではないか?

また、僕は以前、「描写」というものは時間の流れがともなった表現だ、と考えていたことがありました。
たとえば戦闘シーンなどがそれで、「パンチを放ったら相手がよけてキックを繰り出してきて、それを手で払って」というような、刻一刻と状況が変化するものを、「時間の流れに沿いながら」書いていくものが「描写」だと。
一方、「説明」というものは、時間の流れを読者に感じさせないもの、情報を要約したものだと考えていました。
たとえば「この建物は三階建てで、間取りはこうで、材質はこのようなもの」という感じが「説明」だと。

動的表現が「描写」で静的表現が「説明」と考えていたわけです。
しかしいろいろと文芸評論を読んでいくと、どうもそういう定義をしている人はほとんどいないらしい。
また、動的・静的といっても、表現をする上で対象をそのどちらかに劃然とわけることはできません。
たとえば主人公が森の中に入って、自然の表現を目で追っていくだけにしてもそこには確実に時間の流れが生じます。
また、戦闘シーンにしても、その書き方によっては時間をぐんと引き延ばすこともできれば、あとから振り返ったように要約的に書くこともできます。

やはり「描写」と「説明」の違いはよくわからない。
ならば、いっそすべて「説明」でいいのではないか。
「時間の流れをよく感じさせる説明」もあれば「あまり時間の流れを感じさせない説明」もあるということでいいのではないか。

「描写」という言葉には、いわくいいがたい立派そうな雰囲気が漂っています。
「あの作品は描写がうまい」とか「描写のひとつひとつに作者のすぐれた鑑識眼ひいては人生観が宿ってる」とか。
極限すれば、明治以降の西洋から影響を受けた近代文学は、「描写」を中心に回っていたと言えるかもしれません。
明治三十年代以降、言文一致を推し進めた文学者たちが盛んに口にしたのが描写だし、その実践として自然主義の作家たちは「描写=近代リアリズム」の観点から、あけすけで生々しい描写に基づいた作品を書こうとしました。
(岩野泡鳴の「一元描写」、田山花袋の「平面描写」、正岡子規・高浜虚子の「写生」など)

そういった描写偏重の風潮に対し、高見順は「描写のうしろに寝てゐられない」という短い小説論のなかで、「自然描写はかなはん」と書き、物議をかもしました。
「描写は文学に於ける民主主義」のはずなのに、現在(この小説論が書かれたのは1936年)はこの民主主義の前提である読者と作者との協力関係が構築できない、「客観的共感性への不信」があるという趣旨のことを高見は書きました。
「描写」を神聖視していた当時の文壇からはかなり反発があったようですが、個人的に高見の言い分にはうなずける部分がかなりあります。
しかし、やはり高見も「描写」というものに批判的に言及しながら、やはりそれを神聖視しすぎているきらいがあります。

描写という言葉をマジックワードにして権威を与えた結果、小説を巡る議論も抽象的になりすぎ空転してしまうのではないか。
また、「描写」にこだわったあまり、とりわけ純文学において作者の自己満足すれすれの「立派な描写」があふれる結果にもなったのではないかと僕は疑っています。
たとえば志賀直哉の「暗夜行路」にしても三島由紀夫の「豊饒の海」でもいいのですが、ふとしたことで主人公が自然や街の風景に目を転じ、地の文でその描写がされることがあります。
それらは非常にうまい「風景描写」なのですが、その多くは物語には貢献しません。作品テーマとも絡まないことが多い。ただ主人公がよそ見をして風景を見ただけ。
僕はこれを以前から「よそ見描写」と呼んでいて、長らく続く文学の問題点だと思っていました。
とりわけ日本の作家は、そういうちょっとした風景の描写を通じて、間接的に主人公の気持ちを表したり、叙情を醸すことをを良しとしてきました。
あきらかに万葉集以降の和歌・俳句などの影響ですね。
しかしそれらは物語を進めたりテーマを探求することには(ほぼ)つながらない。
立ち止まって読者に風景を見せて、「ほら感じてよ」というだけです。

せめてその風景描写がストーリー上必要なものだったり、劇的な展開の中でそういう描写があればハッとしますが、とくになんでもないだらだらとした展開の中で主人公に「よそ見」をやられても困る、と僕は感じていました。

高見順の「自然描写はかなはん」という言葉も、きっと同じようなことなのでしょう。
「描写」を神聖視した結果、どんどん「うまい描写」が幅を利かせて、その結果文学がどんどんかったるくなっていった。
(石川忠司さんが「現代小説のレッスン」という本のなかで、現代の作家たちがそういう「かったるさ」にどう向き合っているかを解説しています)

僕は、抽象的で偉そうな「描写」という概念を捨てて、即物的な「説明」の地点にもどれば、ひとつひとつの表現の必要性を作家が冷静にチェックできるのではないか、と考えました。

つまり、「いま書いているこの文章(自然表現など)が、いったい小説にどのような貢献をしているのか、もし読者から質問されたときにはっきり答えられないようであれば、それは書く必要がないものだ」という考え方です。
「うまい自然描写だから価値がある」ではなく、「この自然を説明した文章表現が、小説全体とどのように関わり、機能しているか」が大事だというわけです。

「文章で説明した内容の必然性を、読者に訊かれたら説明できるようでなければならない」

こういう二重の「説明」の意識があれば、よけいなことは書かなくて済むのではないか。(オッカムの剃刀に近い考え)

説明というと、小説業界ではあまりよいものだとされていないのだけれど、小説の最大の武器は(少なくとも最大の武器の一つは)「文章であけすけにどこまでも説明できる」ところにあるのじゃないかと思う。
映画に代表される映像媒体は、ビジュアルや音で表現されるから、すぐに情報が視聴者に伝わりそうに思えますが、じつは作品世界の背景であったり、登場人物同士の関係などを詳述するのがとても苦手な媒体です。
ナレーションや字幕のような形で説明することもできますが、それにも限界がある。
映画という媒体は立ち止まることを許さない。
時間の流れとともに、一方的にどんどん情報が流れていってしまうんですよね。

一方、小説の場合は、地の文で野暮なまでに作品世界を説明したり、人間関係を説明したりすることができる。(上のほうで書いた、「時間の流れを感じさせない説明」がこれです)
映画みたいに一瞬で人間や場所などのビジュアルを伝えることはできなくても、そのぶん時間をかけて地の文で説明ができる。
ドラマティックに物語を魅せるためには、この説明が非常に大事なのだと思います。
説明不足のまま物語を進めても、受け手は感情移入ができず、当然ながら感動もできない。

そういう意味での説明の重要性を説いた監督に、ヒッチコックがいます。
彼は、トリュフォーと対談した有名な「映画術」という本の中で、サスペンスの重要性と絡めて情報の提示の方法を語っています。
彼の言うサスペンスとは、ミステリでよくある「意外な結末」というおどろき(サプライズ)とは違います。

たとえば、映画の冒頭で、反政府組織のテロリストが自分の車に爆弾を仕掛けるとする。テロリストはそれを使って大統領府を爆破するつもりだったが、少し目を離した隙に車泥棒にその車を盗まれてしまう。車泥棒は爆弾のことなどつゆ知らず、上機嫌でその車を運転して街中を進み、やがて子供たちのいる保育園の前で停車し――

上記のストーリーは適当に自分が考えたものですが、ヒッチコックのいうサスペンスとはこのようなものです。
作中の人物たちは、それぞれ自分たちの知り得る情報しか持っていないが、それをスクリーン越しに見ている観客たちは、危険な状況がすべてわかっている。
観客たちは状況がわかっているからこそ、「その車には爆弾が載ってるんだから早くみんな逃げろ!」とはらはらしながら物語を追うわけです。
「なるべく映画の中の状況を観客に伝えるべきだ」とヒッチコックは言います。

ヒッチコックのすばらしいところは、役者の台詞で説明することだけでなく、カメラワークやカット割りで観客に大切な情報を説明できているところです。
たとえば、のちのち重要になってくるナイフなどの小道具があれば、カメラがそこにズームしてあけすけに「これが重要アイテムだよ」と伝える。
黒澤明などは「カメラが芝居するな!」と言ってそのような説明的なカットを嫌うのですが、その黒澤もたとえば「用心棒」が成功したのは物語冒頭の宿場町で、会話劇やカメラワークで堂々と状況を説明したからだと思う。
(だから評論家によっては「用心棒」を説明的だとしてあまり高く評価しない人もいる)

娯楽の基本は説明である、と僕は思う。
ガンダムの脚本などで有名な星山博之さんの「星山博之のアニメシナリオ教室」でも、「説明を怖れるな」という趣旨のことが力強く書かれてあり、我が意を得たりと思いました。
(星山さんは「説明台詞にしろ」と言っているわけではなく、構成を含めた総合的な説明の重要性を言っています。余談ですが、シナリオ関係の本はどうしても物語全体の構造論に話が向きがちですが、星山さんは「脚本会議で駄目だしが出たら、ドラスティックに改稿するのではなく、ちまちまと細かいところをいじったほうが成功しやすい」という趣旨の実践的なアドバイスなどもされててとても勉強になります)

小説の場合、「描写」というマジックワードのほかにも「語り」や「文体」というものがあるのですが、これらも「説明」という言葉に置き換えたほうが理解をしやすくなるのではないかと思う。
とくに「文体」というものにこだわると、どんどん文章によけいな情報が付着してしまい、「思い入れたっぷりの文体はかなはん」となりかねない。
これもいっそのこと、「文体など意識せず、説明のためのテクニックだけを考えて書く」としたほうが良いのではないか。
そのテクニックによって、いったいなにを説明するのか?
そこを常に考えて書いていけば、かったるい表現にはならず、必要なものだけを正確に伝え、「おもしろい」ものが書けるのではないか?

――と、少し前までこのように考えていたわけですが、いまの僕は少し違う考えでいる。
ここでようやく、前回の記事で取りあげた「表現の強さ」の問題が出てくるわけです。

次回に続きます。

『表現の強さとはなにか?①』完全燃焼の文体

開高健が「完全燃焼の文体」という短い文章論を書いているのですが(全集13巻に収録されています)、そのなかでヘイエルダールの「コンティキ号漂流記」とキャパの「ちょっとピンぼけ」を取りあげて、すごく褒めています。

文章を変に溜めたり捻ったりしないで、一文一文がすっと素直に消化されていき、読んでいく快楽を与えるばかりで、良い意味でなにも後に残らない――開高はおおむねこのような意味合いのことを書いていました。(いま手元に本がないので正確な引用でないのですが)

また、自分もこのように書きたいが、なかなかこういう文章はものすることはできない、というようなことも書いていたように思います。

コンティキ号やピンぼけを読んでみて、開高の主張がよく理解できました。
これらは二つとも小説ではなく、ルポルタージュの形式なんですね。
書き手が体験したことを、そのまま素直に読者に伝えようとしている。
書き手は構成などには頭を使うでしょうが、部分部分の内容について迷うことは少ない。なにしろ自分が見て聞いて体験したことなのですから、「読者がこれを読んでどう思うかはわからないけど、でも実際にこうだったんだよ」という開き直りに近い気持ちでそれを書くことができる

ことさらレトリックを使う必要なんてないんですね。小説と違って文体とか独自性とか、そんなことを考えなくていい。
だからインパクトのある内容が、スッスッと読者の中に入っていき、余計な煤や澱など残さずに完全燃焼していく。

読者もそういう文章を、作者の実体験として素直に受け取ろうとする。
この書き手と読み手とのあいだに結ばれる自然な協調関係があって、完全燃焼の文体が達成されるのだと思う。
開高もベトナム戦争を取材したり、釣り体験をルポ風に書いていますから、この手の文章のすばらしさがよくわかったのでしょう。

前の記事で取りあげた、鶴颯人さんの「ロヒンギャヘの道」もまさに文章がたゆまず完全燃焼している。
書き手の確信がそこにある。書く動機が明瞭なのが、文章の強さを支えている。

純文学であれルポであれライトノベルであれ、あるいは音楽や絵画や陶芸などであれ、すばらしい作品は単に「おもしろい」だけでなく「強さ」が感じられる。
抽象的で定義はできないけれど、「強さ」としか言えないものがきっとある、といまの僕は感じています。

自分は以前、物書きであるからには、ちゃんと言葉で定義できない概念を安易に掲げるのには反対で、人によって都合よく定義の変わるマジック・ワードのせいで創作の現場が混乱していると考えていた。
しかしいまは、この「強さ」というものを娯楽においてどう出せるかというところに関心が向かっています。

次回の記事は、そこら辺をもう少し掘り下げてみたいと思います。

立命館大学新聞社・鶴颯人さんの『ロヒンギャへの道』

いま、小説を書くためにミャンマーで起きているロヒンギャ問題について調べています。
何冊か本を読んだりしているのですが、ロヒンギャ問題について書かれた本はそもそも少なく(とくに日本語で読めるものは)、あったとしても刊行が何年も前のものだったりします。

ミャンマーの情勢は刻々と変化していますから、もっとリアルタイムに近いものはないかとネットを探していたら、まさにうってつけのサイトを見つけました。

立命館大学新聞社のサイトで連載されている、『ロヒンギャへの道』という一連の記事です。

学生の方が実際にミャンマーまで行って、現地で取材して得た情報をもとに書かれています。
今年(2019年)の2月から連載が始まって、現在も続いています。
ミャンマーを取材したのは昨年のことのようですが、まさに彼の地の現実が見事に切り取られています。

当初、前情報なしに記事を読んでいったのですが、学生が書いているとは思いませんでした。
てっきり大学の先生やプロのライターが、仕事で渡緬して調査されているのだとばかり……。
それぐらい記事の質が高いのです。

ロヒンギャの人だけでなく、ラカイン人(ミャンマーの多数派の仏教徒)にも取材して、フェアに物事と向き合おうとしているのが文章から伝わってきます。
冷静と客観性を旨とする報道的な文章をベースにしながら、ところどころ書き手の率直な感情が流れ、むりなく読み手を現場まで連れていってくれます。
行動に裏打ちされた情報の質の高い文章で、月並な言い方になりますが『足で書く』ことを大切にし、しかもそうして流した汗を決して誇示したりしない。
いい文章だ。

記者は、鶴颯人さんという方。(Twitterはこちら)・(ブログはこちら
まだ二十代の大学生だと思うのだけれど、これだけのものを書けるのは本当にすごい。
『ロヒンギャへの道』だけでなく、立命館大学新聞社のサイトには鶴さんが取材して書かれた記事がいくつもあって、その実力のほどがうかがえます。
たとえば、『バンコクの性産業と日本人』という記事一つ見ても、こんな充実した文章を書いているのが大学生だなんて信じられます?
きっと五十年近く前、若いときの沢木耕太郎さんを初めて知った当時の人たちも、同じような印象を持ったんだろうな。

『ロヒンギャへの道』、ぜひ書籍化して欲しいですね。

僕がいま書こうとしている小説、これまで自分が書いたことのないタイプの作品になる予定なので、出版どころかちゃんと完成できるのかすら自信がないのですが、僕も若い人に負けないようがんばろうと思います。

石井俊匡監督「そばへ」

ぜんぜん更新してなくってすみません……。

以前から注目してた石井俊匡さんの初監督作品がネットで公開されましたので、どうしてもこれだけは取り上げたくて。
丸井や東宝が企画した、WEB公開のショートアニメです。(コミックナタリーさんのネット記事はこちら
タイトルは「そばへ」で、YouTubeで動画が公開されています。

ショートアニメーション『そばへ』Full Ver.

ショートアニメーション『そばへ』Short Ver.


監督に石井さんを指名したのはアニメ会社「オレンジ」のPのようですが、企画を通してくれた丸井や東宝の偉い人たちにも石井ファンとして感謝感謝。

「そばへ」はフルバージョンでも実質二分くらいの短い映像なので、話の流れはとてもシンプルです。
行方不明になった傘が女の子になって町をさまよい、また手元に元にもどってくる、という流れなのですが、前情報なしで一度見ただけだと「女の子=傘」というのがわからない人もいるかもしれません。
これは動画として繰り返し観られることを前提にしているからで、わかりづらさはあえてのことだと思います。

わかりやすく作るのであれば、動画の最初の方で傘が女の子にメタモルフォーゼするカットを入れれば一発で伝わります。
メタモルフォーゼは(昔の実写だと難しかった)アニメならではの基本的な魅力の一つなので、演出家としては当然頭にあったと思います。

あえてそれをやらなかったのは、このアニメが「動き」を見せることに注力しているためだと思われます。
始めに説明的なカットを入れず、女の子の動きだけで傘が風に煽られて街中を飛んでいるところを表現したかったのではないかと。
だから台詞も最小限に抑えています。

以下のあたりとか、開いた傘が引っかかってしまうところが女の子の動きとして面白く表現されてますね。(静止画じゃ伝わりづらいでしょうが)

そばへ1
そばへ2
そばへ3
そばへ4


制作はCGアニメ会社オレンジ。
「宝石の国」で元請けをして、そのクオリティの高さで名を上げました。

「そばへ」も3DCGで作られてますが、セルルックでとても自然な仕上がりですね。
クレジット見る限り、顔とかを手書き絵で修正してるとかじゃなく、ぜんぶCGみたいです。
めっちゃ自然ですね。顔にほとんど影をつけない、秦綾子さんのキャラデザのためもあると思いますが。

モーションキャプチャーでアクターの動きを取り込んで作っているようですが、CGアニメーターたちがうまく動きのタメツメをやっているので、動きも気持ちいい。
宝石の国でも3DCGならではの回り込むカメラワークが魅力的でしたが、「そばへ」でもそういう手書きだと難しい表現が何カ所かありますね。
手書きアニメの背景動画はどうしても背景の情報量が落ちるので違和感がありましたが、これなら違和感ないです。
ハリウッドの実写なんかでは70年代にステディカムが採用されて(ロッキーでも使われてる)、手ぶれの少ないカメラ移動が可能になって、近年ではやたらとカメラが動くようになってますが、アニメもそうなっていくんでしょうね。

セルルックのCGアニメは「蒼き鋼のアルペジオ(2013年)」とか「楽園追放(2014年)」あたりでもすでにかなり自然でしたけど、その頃はたしかまだカットによってはキャラの顔は手書きで直してたはずです。
最近はモーションキャプチャーの技術が向上したり、髪やスカートの動きが自然にできるようになって、どんどんクオリティが高まってます。

一方で、アニメは実写と比べて建物などの配置をまったく自在にできるため、FIXの構図で魅せるというやり方も武器となります。
「そばへ」でも、ラストにこんな構図が。

そばへ5
そばへ6


向かい合った二人の間にある障害物(この場合は街灯のポール)を、片方がぴょんと乗り越えることで、より二人の距離感が縮まったことを強調してます。
石井監督の得意な手法ですね。

右側の男の子が手にしている黒い傘は、その人の気分を暗示してます。
また、陽の射し込む角度の関係で、画面右側の方もやや暗く設定されてます。
こういうライティングが自在なのもアニメの武器。

最後に、彼女が差し出した傘を、男の子が下から見上げることでそこに美しい景色を発見し、嫌いだった雨のことを見直す、というような落とし方になってます。

そばへ7
そばへ8
そばへ9
そばへ10


短い映像ですが、一度観たときは傘の女の子の動きに惹きつけられ、繰り返し観ると作りの丁寧さがわかる、よい作品だと思います。

石井さんは、最近の俗語でいう「エモい」演出ができる方です。
2018年の「抱かれたい男1位に脅されています。」の7話で石井さんは絵コンテ・演出をされてますが、これもめちゃくちゃエモかった。
ネットで検索してみると、7話を絶讃する意見が多く見られます。どうやら普段アニメの演出を意識しないで観ている層にも刺さったみたい。

演出家としてのタイプは違いますが新海誠監督や山田尚子監督に匹敵するエモさがある気がします。
エモさ押しといえば出崎統監督からの流れで、幾原邦彦監督や新房昭之監督や大沼心監督という方々もいらっしゃるのですが、石井さんの場合はかっちりした象徴的な構図を武器としつつ、処理のうまさでカットの流れを綺麗に作っていくところに特徴があります。
ここぞというときの決めカットの凝り方などは高雄統子監督と近いタイプな気がするし、広角レンズ的な画面の作り方や、抜けのいい屋外シーンの画作りなどは少し細田守監督的でもある。
(だから「未来のミライ」の助監督を石井さんが担当したのを知ったとき、すごく腑に落ちた)

ファンとしては石井監督の劇場アニメが観たいです。
作風的に劇場が一番向いているんじゃないでしょうか。
石井さんはテレビの仕事でも要所要所で鬼のようにうまいレイアウトを入れているので、時間と予算をかけて、たとえば押井守監督や今敏監督や松本理恵監督のような情報量の多いカットをがんがん入れて映画を作ったらどうなるか、想像するだけでわくわくする。
書いてる人

藍上 陸(らんじょうりく)

藍上 陸(らんじょうりく)
--------------------------
小説書いてます。

最新記事
カテゴリ
月別アーカイブ
検索フォーム