「Fate/Grand Order -絶対魔獣戦線バビロニア-」10話の石井俊匡演出②

前回に続いて、「Fate/Grand Order -絶対魔獣戦線バビロニア-」10話(こんにちは、太陽の女神)の石井俊匡さんの演出について自分なりに思ったことを書いてみたいと思います。

今回は編集(カッティング)の妙について。
といっても、レイアウトと違ってカッティングは静止画の引用だけだとカットのタイミングなどがうまく伝えられません。
動画形式で当該個所を引用する手もありますが、著作権的にOKなのか? という不安が。
画像を引用しての批評なら、過去の判例から認められていますが(脱ゴーマニズム宣言事件など)、サイト上に動画を載せて批評することについては果たして判例があるのかどうかわかりません。

たぶん必然性があれば動画引用もOKだと思うのですが、とりあえず今回も静止画の引用でなんとかやってみます。
というかそもそも自分、動画の編集とかほとんどできないから引用しようにもできないし。
そんな自分がカッティングについて語るなどおこがましいですが、幸いなことに『映画の瞬き』というよすがとなる好著があります。

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※自分が読んだのは2008年に出た旧版なので、下記の引用文もそちらからになります。

著者のウォルター・マーチは、『カンバセーション…盗聴…』や『地獄の黙示録』などのフランシス・フォード・コッポラ監督の作品や、ほかにもジェリー・ザッカー監督の『ゴースト/ニューヨークの幻』など、数多くの作品の編集を手がけている編集技師です。

この本のなかでマーチは、人間のまばたきと映像編集との関係について考察しています。

 どうやら瞬きの頻度は、周囲の環境条件よりは、むしろ頭の中における感情や思考の頻度に大きく影響を受けているようだ。(ヒューストンの例のように)顔の方向を変えなくても、瞬きというものは、頭の中で展開されている思考の分離作業を助長するもの、または、無意識のうちに脳が行っている分離作業にともなって勝手に表出するもの、のどちらかではないだろうか。

(※中略)

 もしもその会話が映画の場面だったとしたら、話し相手が瞬きする瞬間は、おそらくカット・ポイントと同じ瞬間になるだろう。その前でもなければ後でもないのだ。
 つまり、人は日常生活の中で、ある考えを心に抱いたり、思考を連ねて連想したりするけれど、新たな思考とそれまでの思考を分離して区別するために、瞬きをしているのである。同じように、映画の中では、ひとつのショットがひとつの思考に相当し、それを分離させて区別させるためのカットが「瞬き」に相当する。カットしようと決めたその瞬間、その編集者は「この思考についてはここで終わりにして、新しい思考をはじめよう」と言っているようなものだ。ここで強調しておきたいことは、カットそのものが「瞬きの瞬間」を作り出しているわけではないということだ。それはシッポが犬を振るわけがないのと同じことである。

映画の瞬き―映像編集という仕事― ウォルター・マーチ(著)/吉田俊太郎(訳)p83~85



このように、マーチは人間のまばたきというものを、「思考や感情を分離するもの」としてとらえ、映画におけるカット・ポイント(編集点)をまばたきのタイミングを想定しながら決めるのだと述べます。
マーチはこの考えを敷衍してこう続けます。

 自分が心地よく瞬きできると感じた個所こそが、カットされるべきだと感じる個所そのものなのである。
 そうすれば、以下の三つの問題も一気に解決する。

①カット・ポイントになり得る数々の個所を見極める(瞬きに注目するとこの作業は容易になる)
②それぞれのカット・ポイントが、観客にどのような効果をもたらせるのかを見極める。
③どのような効果をあたえることがその作品に適しているかによって選択する。
 
 思考の流れ(つまりカットのリズムや頻度)は、その時点で観客が目の当たりにしているものとピッタリ合っていなければならないと私は信じている。「現実の世界」における人間の瞬きの平均回数は、一分につき四回から四〇回とバラつきがある。たとえば口論中の場合だと、一分の間に頭の中には対立する様々な思考が巡るため、瞬きの数は多くなる……ということはつまり、映画中の口論シーンにおける一分間におけるカット数も多くなるべきだ。(注20)実際の話、統計的に見ても、この二つ(現実の瞬きと映画のカット)を比較すると非常に似通っていることが分かる。演出によって多少の違いはあるものの、平均的なアクション・シーンのカット数は一分間二五カット程度なのに対して、通常の会話シーンでは一分間に六カット以下であっても「普通」に(アメリカ映画の場合)感じるものだ。
 いつでも瞬きとピッタリと符号しているべき、おそらくは、ほんの少しだけ先行しているべきではないだろうか。もちろん、あらゆるカットごとに観客が瞬きをしなければダメだと言っているのではない。瞬きするであろうと思われるポイントをカット・ポイントにしなければいけないということだ。ある意味、カットすることで、つまり唐突に視界を変えてしまうことで、編集者が観客に代わって瞬きしてあげているという言い方もできる。ヒューストンの言葉を借りれば、二つのコンセプトを即時的に並列させることで、日常では瞬きすることで行われている作業を代行しているということだ。
 編集者の仕事は、観客の思考プロセスを、予想しながらコントロールすることだ。観客に「乞われる」直前に、彼らの欲している、必要としているものを提示すること、つまり意外性と自明性を同時に兼ね備えていることだ。そのタイミングが遅すぎたり早すぎたりすると問題が生じてくるが、ピッタリ合うか、またはほんの少しだけ先行していると、観客としては、その後で描かれる出来事を、とても自然に、しかもエキサイティングなものとして受け取ることができるのである。

注20
こうすることで観客はその口論に感情的に引き込まれてくれるだろう。反対に、もっと距離をおいて欲しい(観客にその口論をひとつの現象として客観視して欲しい)なら、あえてカット数をずっと少なくするという手法が使えるわけである。

映画の瞬き―映像編集という仕事― ウォルター・マーチ(著)/吉田俊太郎(訳) p90~92



「(カット・ポイントは)いつでも瞬きとピッタリと符号しているべき、おそらくは、ほんの少しだけ先行しているべきではないだろうか。」
「カットすることで、つまり唐突に視界を変えてしまうことで、編集者が観客に代わって瞬きしてあげているという言い方もできる。」

この考え方はとても重要です。
映像というメディアは音楽と同じように時間芸術で、読書とは違い、観客の都合などおかまいなしに一方的に進んでいくものです。
音楽であればその音の連なりの美しさに身を任せればよいのですが、映像作品の場合は視聴者がそれを解釈しながら見ていく必要があります。
視聴者がまばたきをするであろうポイントよりカット・ポイントを遅らせると、映像が間延びした印象となってしまうでしょう。
これは全体のテンポの緩みにつながります。

さて、上記引用文の最後、「注20」には、「もっと距離をおいて欲しい(観客にその口論をひとつの現象として客観視して欲しい)なら、あえてカット数をずっと少なくするという手法」という言葉があります。

それを踏まえて、バビロニア10話の冒頭のカットを見てみましょう。

バビロニア1

前回の記事で書いたように、上記のレイアウトで、左端に立つ女神イシュタルと右端の玉座にいるギルガメッシュの丁々発止が繰り広げられます。
ざっと数えて45秒ほどなので、アニメのカットとしてはかなり長いです。
しかしイシュタルとギルガメッシュの言葉の応酬のなかで、途中一瞬だけほかのカットが差し込まれます。

①イシュタルの顔アップ
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②主人公の藤丸立香の顔アップ
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③イシュタルの顔アップその二
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④祭祀長シドゥリの顔アップ
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どのカットも1秒ほどの短いものです。
どれも顔のアップになっているのは、この短い時間でカット内容をちゃんと視聴者に伝えるためには顔アップが一番適しているのと、「ロングショット→顔アップ」という極端な距離の縮め方で映像にメリハリをつけるためでしょう。

前回の記事で書きましたが、今回の話数でロングショットが多いのは、コミカルなシーンを客観的に提示するためではないか、と僕は考えています。
ロングの絵にしたほうが、滑稽なやりとりを視聴者に客観的に突き放して見てもらえるため、笑いが起きやすい。
それに、キャラクターの全身を使ったアクションとリアクションの両方を、カットを切り替えずいちどきに見せられるため、かけあいのリズムを壊さない。

しかし、さすがにずっと引きの絵のままだと映像的にだれてしまうので、一瞬でもいいからカットの切り替えが必要です。
そこで上記の引用画像のようなキャラの顔アップが差し込まれたと推測するのですが、問題はそのカットをどのタイミングで挿入するか、です。

これはイシュタルとギルガメッシュの台詞の関係もあるので、実際に音つきの映像を観て頂くのが一番なのですが――最初に観たとき、自分は「あえてカットを挟むタイミングをずらしているな」と感じました。

引用画像①のイシュタルの顔は、タイミング的にそれほど違和感はありません。↓

ギルガメッシュ「そして恥知らずにも出戻ってきた、(カット切り替え)そこの女神!(カット戻る)」


しかし、そのあとの②のタイミングは、ちょっとずれている。↓

イシュタル「だぁれがあんたの軍門に降ったかって言うの! 私はビジネスパートナーとして、そこのマスターと契約したのよ! 見てなさい、こいつがすっごいマスターになる(カット切り替え)まで(カット戻る)死のうが爆散しようが私が生き返らせるから!」

イシュタルの台詞の中途で主人公の顔アップに切り替わり、すぐに元のロングのカットに戻ります。
おそらく『映像の瞬き』的には、「私はビジネスパートナーとして、そこのマスターと契約したのよ!」のあとに主人公の顔アップを挟むのが切りが良く自然だろうと思います。


また、③についても、微妙にタイミングをずらしているように感じられる。↓

イシュタル「そしてあんたはこう言うのよ! おお、イシュタルは勝利の女神であったか! よし!  (カット切り替え)我死のう!(カット戻る) ってね!」

②と較べればまだ自然ですが、それでも「我死のう!」のところだけ急に顔アップになり、「ってね!」のところではすでに元のカットに戻っているのはかなり忙しい印象です。
もっと穏当にするなら、「おお、イシュタルは勝利の女神であったか!」のところでカットを切り替え、イシュタルの顔アップで「よし! 我死のう! ってね!」と言わせるやりかたがありそうです。


④についても、シドゥリの顔アップを挟むタイミングはかなり変則的です。↓

シドゥリ「お二人ともどうかそこまでに。なんにせよ土地神が実際に舞い降りるなどこの上ない名誉なこと。(カット切り替え)牧場主(カット戻る)からの被害報告などは水に流しましょう」

それまで黙っていたキャラが急に口を挟むのだから、普通ならば早い段階でその人の顔を映しそうなものです。
「お二人ともどうかそこまでに。」のあとに顔アップを入れるのが一番自然だろうと思います(台詞上もそこで一度呼吸を置いています)。
しかしここではかなり遅れたタイミングでカットが切り替わり、しかも台詞の途中の「牧場主」と言ったあとに元のロングショットに戻っているため、かなり不規則な印象を受けます。

これらは狙ってカット・ポイントをずらしているように見えます。
まさに、『映像の瞬き』にあった、「もっと距離をおいて欲しい(観客にその口論をひとつの現象として客観視して欲しい)なら、あえてカット数をずっと少なくするという手法」に通ずる考え方だと思います。

このカット数を少なくする、というのは、物理的に少なくするというだけではなく、カット・ポイントを瞬きが起きそうな瞬間より遅らせることでもあると思います。
実際に演出家の石井さん(と編集の三嶋章紀さん)がどのような狙いでこうしたかは他人の僕にはわかりませんが、おそらくこの「タイミングがズレた感じ」を狙ってやることで、イシュタルとギルガメッシュの丁々発止を視聴者に突き放して観てもらおうとしたのではないでしょうか。


そうやって「タイミングのズレ」を演出する一方、この話数では、コミカルなシーンにおいて編集による「省略」でテンポの良さを演出しているのが目立ちました。

ジャガーマンが、森の仲間たち(雑魚キャラ)を主人公たちにけしかけるシーン。

ジャガーマンが、雑魚キャラたちを呼ぶ。↓
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ジャガーマンの台詞「ボーイズ&ガールズ! 今夜は寝かさなーい、ぜぇ!」の「ぜぇ!」の瞬間に↓カットへ。
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ジャガーマンが去り、雑魚キャラたちが棍棒を振り上げて一斉に「ウォオオオ!」と雄叫び。↓
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雑魚キャラの雄叫びを唐突に切り、場面転換して王城のギルガメッシュの足の貧乏揺すりのカットへ。↓
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ギルガメッシュにケツァルコアトルの件を報告する主人公たち。しかし雑魚キャラとの戦闘にはいっさい触れず。↓
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アニメに限らず、最近の映像作品ではよくテンポ感が取り沙汰されます。
「あの作品はテンポがいい」とか「あの場面はテンポが悪い」といった声をネットの感想でよく見かけます。
最近知ったのですが、円盤などで自宅で映画を観る人のなかには、動画再生ソフトの機能を使って1.2倍速以上のスピードで再生して観る人もけっこういるのだそうです。
そのほうが時間節約にもなるし、テンポ的にもだれなくてちょうどいいのだとか。
パソコンやスマホでYouTubeの動画などを次々にザッピングしていく時代なので、映像に対する感度や接し方が変わってきているのかもしれません。

じつは自分も、再生スピードこそいじろうとは思いませんが、録画したり円盤を買ったりしてアニメや映画を観るとき、しょっちゅう停止ボタンを押して休憩しながら観るくせがついてしまっています。
一本の映画を見終わるのに一週間以上かかったりします。
こんな記事をブログに載せておいて言うのもなんですが、自分は映像で物語を観ることがそもそもあまり得意ではありません。
自分のペースで読み進めていける小説や漫画のほうがずっと好きです。
こらえ性がなく坐骨神経痛まであるので、三十分のテレビアニメですらきつく、ましてや映画館に二時間すわって映画を観るのはかなりの苦痛を伴います。

また、技術の発達によって映像がどんどん綺麗になり、そのせいでどんな映像にも観客はすぐに慣れてしまい、感動がなくなってしまう――そういうジレンマが映像にはある気がします。
刺激が強いからこそ、その刺激に慣れるのも早く、そうなってしまえば変化のない退屈な代物となる。
「バビロニア」も、たとえば8話の戦闘シーンはとても作画枚数を使って派手に作られているのですが、僕は途中から慣れてしまって感動が薄らいでいることに気づき、自己嫌悪に陥ります。

映像の綺麗さ、派手さだけではなく、カット単位でもシーン・シークエンス単位でも視聴者の予想を裏切るアイデアが必要で、そのためにはモンタージュを含めた編集の妙が求められるのだと思います。

映像におけるテンポの良さとは、あるいは「本来あるべき時間や工程を飛ばし、そのあいだに起きたことを視聴者の想像力で埋めさせること」なのかもしれません。

逆説的ですが、視聴者の脳内で「後戻り」をうまくしてもらったときに、テンポの良い映像ができあがるのです。
なにしろ、人はこれから起きるであろうことをじっと待つより、すぎさった過去に思いを馳せることのほうがずっと速くできるのですから。

上記のジャガーマンの件でも、雑魚キャラたちが棍棒を振り上げて雄叫びを上げた瞬間、視聴者はこれから主人公たちと戦闘が始まると身構えます。
しかし次の瞬間カットが代わり、王城内へと場面が飛ぶ。
その際、ギルガメッシュの貧乏揺すりをアップにしたカットを挟むのは、場面転換を伝えるためにはショットサイズをがらりと変更したほうが誤解が起きず、効果的だからです。
そのあと、ギルガメッシュに経緯を説明する主人公たちのカットはロングの俯瞰になりますが、これもジャガーマンたちとの横構図のカットと明確にアングルを変えたことで場面転換を示しています。

また、この最後のカットで、視聴者は雑魚キャラとの戦闘シーンがカットされたことに気づき、きっと笑います。(僕は大笑いしました)
もしここで、すぐにキャラの顔アップのカットにしてしまうと、映像的な新しい意味が発生してしまい、情報量が増えて笑いの余韻が消えてしまう。
あらゆるアングルのなかで一番客観的な俯瞰カット(しかも主人公たちは背中)にして、ほとんど止めの絵で会話させるからこそ視聴者は安心して笑えるのです。
そしてこのカットによって、先ほどのジャガーマンたちとのあいだに起きたであろう戦闘を視聴者は遡って想像し、そこで起きたことを高速で脳内補完することによって、テンポが良いと感じるようになります。

最後の止めの俯瞰カットだけ見れば手抜きと思う人もいるかもしれませんが、映像演出というものは前後のつながりが大切だということをあらためて考えさせられます。


同じく、編集による省略でテンポの良さを演出しているシーン↓。

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ジャガーマンに向かってイシュタルが攻撃した際、実際に攻撃が当たってジャガーマンが倒れるところを映さず、いきなりジャガーマンの顔アップのカットに飛びます。
カットが切り替わると、ジャガーマンが倒れて強がっている絵になりますが、一見しただけでは普通に立っているようにも見えます。
そして最後のロングのカットで、ジャガーマンの姿が画面から消えて武器のみが屹立して映っていることから、ようやくジャガーマンがすでに倒れているということに視聴者は気づきます。

実際に映像を観て頂くと、物理的なスピードの速さだけではなく、視聴者が「後戻り」して意味を理解することでテンポの良さにつながっていることがわかります。
この「省略された時間」をうまく視聴者に埋めてもらえるようコントロールしないと、単にカットがつながっていない失敗演出となってしまいます。

この「視聴者に後戻りして理解させることでテンポの良さが作られる」というのは、視聴者の能動的な意識を利用するという意味で、前回の記事の最後に書いた「なにかが起きそうな予感」を演出することと本質的に同じです。


小説や漫画と違い、一方的に流れていく映像だからこそ、いかに視聴者に考えて作品世界に参加してもらうかが重要なのだと思います。
アニメの場合は絵コンテという作業が必ず入るため、そこで前もって絵的にそういう計算ができます。
実写で絵コンテを描かない現場の場合、「なにかが起きそうな予感」であったり省略といった演出テクニックを、どの段階で誰が考えているかが気になります。

ハリウッドなどでは専門のストーリーボード(絵コンテ)担当の人を雇うので、プリプロダクションの段階で監督やカメラマンなどを交えてプランを立てられますし、ポストプロダクションでも編集技師は絵コンテも参照しながら編集をおこなっていきます。
近ごろはCGのパートが増えたため、あらかじめ映像を設計するストーリーボードの重要性はますます高まっています。

アルフレッド・ヒッチコックやスティーヴン・スピルバーグやマーティン・スコセッシの撮った昔の映画が、何十年経ってもいまだに新たなファンを獲得し、若いクリエーターに影響を与え続けるのは、ストーリーボードを用意することを厭わず、映画的なテクニックを知悉して縦横に用いているからでしょう。
彼らの良き後継者は、日本においては実写ではなくアニメの演出家に多くいるのではないでしょうか。

小説においても、そういった演出に自覚的でなければならないと僕は思います。
それを考える上で、今回続けて取り上げた「レイアウト」や「カッティング」という映像の概念を研究することは意味があることだと思います。

「Fate/Grand Order -絶対魔獣戦線バビロニア-」10話の石井俊匡演出①

前回の記事の最後で予告したように、「Fate/Grand Order -絶対魔獣戦線バビロニア-」10話の「こんにちは、太陽の女神」の石井俊匡さんの演出について書きます。

石井さんについては過去に幾度も取り上げました。(最初の記事はこちら
ずっと石井さんを追いかけて我ながらストーカーみたいでキモいですが、演出の勉強をするのは小説を書く勉強にもなっています。
今回は「レイアウト編」と「カッティング編」と記事を二つにわけまして、今回はレイアウトについて思ったことを書いてみます。
例によって自分は映像の素人にすぎないので、まちがったこと書いてたらごめんなさい。

石井さんといえば、人物を横にならべた構図で、人物間の手前や奥に構造物を置くことで、立場の違いや心の距離感を表す演出を得意とされています。
今回もアバンで早速ありました。

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画面の左端に、主人公に宝石で買収されて仲間になった黒髪ツインテのイシュタルが立っています。
一目瞭然、画面手前に置かれた大きな柱によって、イシュタルだけハブられています。
この出だしのアバンはコミカルな雰囲気で、右端の階上の玉座にいるギルガメッシュが左端のイシュタルを見下し、二人で丁々発止のやりとりをします。

上記のレイアウトのまま、けっこう長く二人が言い合います。
カメラワークもなく、左端にハブられているイシュタルがしゃべりながらその場でわちゃわちゃと手足を動かすほかに大きな変化はありません。
途中、イシュタルや主人公などの顔アップのカットが入りますが、ほんの一瞬だけ差し込まれるだけですぐにまたこのレイアウトにもどります。

この話数では全体的にカメラは引き気味で、アニメにしては長く回しているカットがよく目につきます。
なぜそうしているかというと、おそらく今回はコメディ色の強い話数だからだろうと思います。
これぐらい思いきりカメラを引くことで、キャラのコミカルな動きを全身で表すことができますし、ドタバタするキャラクターを突き放して客観的に提示することができます。

笑いの質として、「観客の意識が笑いの場のなかに入っていったほうがおもしろいタイプ」のものと、「観客が客観的に対象を突き放して見たほうがおもしろいタイプ」のものがあると思います。
今回の話数ではとくに、ジャガーマンという世界観クラッシャーな珍獣が仲間になりますので、そのドタバタっぷりにまともに演出が付き合ってしまうとアイタタな感じが強くなりすぎ、観客が白けてしまいます。

それを防ぐために、ロングショットを多用して対象を客観的に見せていると思うのですが、その際の工夫として、レイアウトをあえて平面的にペラくしているようにも感じられます。

もう一度最初の引用画像を見て頂きたいのですが、直線の多いひらけた空間なのにどこにも消失点を設定してないことがわかります。

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手前にある、不自然なまでに大きく映る柱のせいで、かえって絵がフラットに感じられます。
よく見ると、左端にいるイシュタルは、画面中央にいるほかのキャラたちより、ちょっと奥の位置に立っていることがわかります。
人物サイズを較べてみてやっと気づくぐらい、奥行きがあいまいな絵なんですね。
横の構図だとそもそもこうなりやすいんですが、これはコメディのためにあえて狙って奥行きをなくし、平面的な絵面を企図しているような気もします。

石井さんのパースをつけたレイアウトのうまさは、コンテ演出を手がけた「僕だけがいない街」2話の教室のシーンを見れば瞭然です。↓

僕だけがいない街 2話7
(詳しくはこの記事

今回のバビロニア10話でも、イシュタルとギルガメッシュの丁々発止が終わり、ギルガメッシュが少しまじめなモードになると、今度はちゃんとパースのついたレイアウトとなります。↓

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↑横の構図から縦の構図に変わり、床の絨毯が奥に向かって走ることによって遠近感が強調されています。
これにより、さっきまでのコミカルな雰囲気から変化したことを視覚的にも伝えているわけですね。

↓パースはついていませんが、まじめな会話をしているときの「縦の構図」のわかりやすい例です。
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実写・アニメ問わず、縦の構図を撮るときの常套手段である、望遠レンズを使った(ように見せる)カットですね。
望遠レンズの圧縮効果により、手前の人物と奥の人物のサイズがあまり変わらなくなり、奥にある階段が急角度で立ち上がって見えます。
これをディープフォーカスにしてしまうと単なる作画ミスだと思われてしまいますが、ちゃんと望遠レンズの被写界深度を表すためにフォーカスの合っていない部分を撮影処理でぼけさせてますね。

この話数では、おおむね「コミカルなシーンではパースのついていない横の構図」・「まじめな話は縦の構図」という使いわけがなされているように思います。
以下、コミカルなシーンのときの横構図の例を時系列関係なしにいくつか。

↓地面に敷かれた煉瓦がパース線となっていますが、ほとんどわからず、全体の印象はぺらっとしています。
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また、コミカルというわけではありませんが、凶暴性を剥きだしにしたケツァルコアトルが急に緊張感を解いて気の抜けた感じになる場面も、ロングの横構図になります。↓

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ただ、コメディシーンはすべて横の構図というわけではなく、たとえば下の引用画像は縦の構図となっています。

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パースが発生して遠近感がついたため、奥にいる頭から血を噴いたジャガーマンを、主人公たちが「なんだこいつ……」とちょっと突き放して見ている感じがよく伝わります。
遠近感はついてますが、中央の消失点のところにジャガーマンを置いたベタすぎる一点透視図法なため、凝った感じはなく、かえってチープでコミカルな感じになっています。

構図の縦横を問わず、ロングショットにしているのは、ギャグの担い手とそれに反応する受け手の両者を一つのカットに入れ込むため、という理由もありそうです。
コメディシーンでカットをいちいち切り替えると、うまくやらないとテンポ感が悪くなったり、笑いの「間」を潰してしまうことがあります。
テレビの漫才で、いちいちボケとツッコミをべつべつのカットで示したら、きっとテンポが悪くなってしまって笑えないでしょう。
一つのカットのなかに両者を入れ込むと、アクションとリアクションがシームレスに見せられます。

一方で、カットを切り替えたときのほうがテンポ良くおもしろくなることもあり、次回の「カッティング編」ではそれを考察してみる予定です。

そのほかにも、おもしろかったレイアウトをいくつか。

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↑腰を抜かした兵士をマシュがかばう際、マシュの盾をこのように使ってみせるのはさすが。
また、このアングルを取ることで、このあと右側から駈けつけてくるロリっ子アナや主人公を、自然にフレームインさせられます。↓

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↓また、最初に引用した「柱」のように、マシュの盾を使ってイシュタルだけを疎外するやりかたもあります。
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↓マシュの視線が主人公に注がれているのを強調するため、盾で画面下を隠すやりかた。
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この作品の主人公は一般人なため、みずから敵に向かっていくわけではなく、おもにマシュたちサーバントをバックアップする役目なのでどうしても活躍が地味になりがちです。
ネットでは「主人公はただ立って見てるだけ」みたいなひどい言われようをしているみたいですが、そういう印象を緩和させるため、こうして動揺するマシュが主人公を頼っているように視線を強調したのではないでしょうか。(台詞とか状況自体はシナリオで指定されてたと思いますが)
この際、主人公はマシュを見返すのではなく、敵のいるほうをじっと見つめさせることが大事です。

マシュの視線を使って主人公の存在感をだすやりかたは、0話のコンテ演出を担当した高雄統子さんもされていました。
盾を正面に構えるマシュの手に、横からそっと主人公が手を重ね、マシュがはっとした顔でとなりに立つ主人公を見上げるカットがもう最高なのですが……高雄さんの視線を使った演出は、いつかほかの作品と合わせてまとめてみたいので、詳しくはそのときに。

マシュの盾を「仕切り線」のように使うやりかたはとてもうまいのですが、しかしなんでもかんでもそこに意味を読みとろうとすると誤読するおそれがあります。
たとえば、以下のカット。
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マシュの盾によって左端のアナだけが仲間たちから隔離されているようにも見えます。
しかも、アナと同じ側に敵のケツァルコアトルがいるので、FGOをよく知らない自分などは一瞬、「まさかアナとケツァルコアトルはなにか関係が?」と思ったりもしましたが、これはさすがに深読みのしすぎです。
ケツァルコアトルを含めた状況を示すためにはカメラ位置を低くしてあおる構図しかなく、全員を入れ込むためには、背の低いアナの立ち位置はここしかなかったということなのでしょう。
まさかこのカットだけマシュの盾を消すわけにはいきませんし。
全員の視線が頭上のケツァルコアトルに向かっているので、へんに深読みしない限り違和感はありません。

次に取り上げるのは、台詞と構図を組み合わせたカット。
バビロニア33
「逆説的に、善なる者では敵わないの」

↑イシュタルの「逆説的に」という台詞が始まるのと同時に、この水の表面に映ったさかさまのイシュタルの顔のカットに切り替わります。
台詞の「逆」という部分にかけたお洒落なカット。

↓もう一つ、この話数のラストカットも。
バビロニア31
「ケツァルコアトルと、魂の真っ向勝負だ!」

「真っ向勝負」と言っているのにこれ以外のアングルを取ったら、映像的にべつの意味が発生してしまいます。
ギャグ調になったり、不穏な先行きがにおったり、本心とはべつの台詞に聞こえたり……アングルとショットサイズを変えるだけで、同じ台詞でもまったく違うニュアンスを表現できます。
ここではそういう裏の意図はないので、真正面以外のアングルはありえません。

次に引用するカットは、人物を画面の片側によせて「空き」を作ることによって、そこに人がやってくるのを視聴者に予感させます。
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右側に映っているロマニと、左側からやってくるダ・ヴィンチはたいてい一緒にいます。
なので、ロマニだけ画面片側に寄っていると、空きスペースにダ・ヴィンチが来るのではないかと視聴者に予測させることになり、実際に動きが起きるのに先行して次の展開を視聴者の内部で発生させることができます。

視聴者にみずから次の展開を考えてもらうことが大切で、それにより作品世界に没入してもらえます。
学校で先生から一方的に問題の答えを教えられるより、自習で問題を解いたほうが長く記憶に残るのと一緒ですね。

↓同じようにフレームインするカット。
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バビロニア29
バビロニア30

演劇では、幕が上がったときにすでに役者が所定の位置に立っていることを「板付き」と言いますが、映像作品でもカットの最初から人物がフレームに収まっている板付き芝居だけでは、緩急のない、動きの乏しいものになってしまいます。
フレーム内部で人物が動くより、フレーム外から内へ入り込んでくる動きのほうが劇的で印象強いものになりますし、フレームの外側にも広い世界があることを視聴者に伝えることができます。(フレームアウトも同様)

北野武監督が昔、雑誌のインタビューで(たしか渋谷陽一さんがインタビュアーだった)、『映画作りはお笑いのコントと同じで、人の出ハケを押さえることが重要だ』という趣旨のことをおっしゃっていました。
漫画ではこのフレームインという動きをおもしろく表現するのが難しいため、漫画を読んで育った作り手は、映像を演出するときに出ハケの見せ方やタイミングに苦労します。
どうしても板付きが多くなり、人が新たにやってくる場面ではすぐにその人の顔へカメラを向けてしまう。
舞台を経験したことのある作り手のほうが、人が現れる(もしくは、人が現れる「予感」を発生させる)ことの演出上の可能性を強く実感しているはずです。

この、フレーム内に誰かがやってきそうな予感だったり、なにかが起きそうな予感を視聴者に持ってもらうためには、ただ当該カットだけを作り込めばいいのではなく、前のほうのカットから伏線を張っておく必要があります。
(ロマニとダ・ヴィンチはセットでいるという情報や、小動物のフォウが草葉から表れたといったことを、あらかじめ前のカットまでに示しておく)

この「予感」は「期待」と言い換えてもよく、これをうまくコントロールすることが、映像に限らずエンタメをおもしろくするための極意の一つなのではないか、と僕は最近思っています。

なにかの雑誌で読んだのですが、脳内麻薬のドーパミンがもっとも放出されるときは、幸せなときではなく、これから幸せなことが起きそうだと予感したときなのだそうです。
文化祭当日より、文化祭前夜のほうがテンションが高い、というやつですね。

おそらくこれは生物が進化の過程で獲得した性質で、子孫を残すためには、交尾ができそうな雰囲気を感じたら即座にドーパミンをドバドバだして反応できるようでなければいけません。
また、肉食動物の襲撃から逃れるためには、実際にライオンが飛びだしてきてから反応しても駄目で、草葉がガサッと鳴ったときや、怪しい体臭が鼻についたときに集中力を高める脳内物質を一気に放出する必要があります。

ホラーではこの原理を最大限に利用し、「来るぞ来るぞ」という、いまにも脅威が現れそうな緊張感を演出して観客のドーパミンやアドレナリンを誘発します。

ホラー以外でこの「予感」を書くのが抜群にうまい作家に、村上春樹さんがいます。
それまで普通に暮らしていた主人公の生活が、ある日をさかいに変容してしまう――氏の書く物語の序盤はそういう「なにかが起きそうな予感」に満ちており、これが人気の秘密の一端なのではないかと思います。

次回は、カッティング編です。

きのこ原理主義者が操を捨てるまで

捻挫したカタツムリのような速度で小説を書いています。
いやはや、慣れないジャンルだとプロットすらもうまく立てられないですね。
おおまかに構想を練ったあとはとりあえず書きだして、各部のディテールを濃くしながらなんとかテーマに追いすがっていって、いつか終わってくれることを祈るしかないというか。

さて、またもやアニメの記事です。
2019年8月から放送されている、「Fate/Grand Order -絶対魔獣戦線バビロニア-」のアニメを毎週観ています。

監督は赤井俊文さん。
過去にショートフィルムの「Porter Robinson & Madeon - Shelter」の監督をされていますが、テレビシリーズの監督は今回が初だと思います。
錦織敦史監督の「THE iDOLM@STER」の特別編のコンテ演出や、高雄統子監督の「アイドルマスター シンデレラガールズ」の4話・11話・19話のコンテや演出や作画監督を務められたのが強く印象に残っています。
(デレマスのPR動画回・アスタリスク回・にわかロックの回、と言えばアニメを観ていた人ならすぐにわかるはず)

デレマスで赤井さんが作画監督をされた回は、キャラデザの松尾祐輔さんの絵と較べてキャラの顔が少し幅広でぷにっとしているのが特徴です。とくにみくにゃんの顔が

「アイドルマスター シンデレラガールズ」4話より。絵コンテ/演出/作画監督=赤井俊文
赤井みくにゃん
赤井みくにゃん2


「アイドルマスター シンデレラガールズ」7話より。絵コンテ=高雄統子/演出=原田孝宏/作画監督=嶋田和晃/総作画監督=松尾祐輔
松尾みくにゃん(たぶん総作監の松尾さんが原画に手を入れてる)
松尾みくにゃん


赤井さんの演出は、腕のいいアニメーターらしく要所要所でキャラクターの芝居を細かくして魅せるのがうまい。
堀口悠紀子さんから影響を受けたそうで、たしかに以前の絵柄にそれはうかがえたものの、原画の動かし方や演出の方向性は堀口&山田尚子コンビとはだいぶ違う、赤井さんならではのものです。
(ミリオンライブのことはよく知らないのですが、アニメ化するのなら赤井さんに手がけてもらいたいなぁ。錦織監督や高雄監督とはまた違ったテイストになるはず)

Fateについては、自分は月姫以来の奈須きのこ信者として2004年に初代の「Fate/stay night」が発売されるのをわくわくしながら待ち望んでいた人間なのでもちろん知っているのですが、スマホゲーの「Fate/Grand Order」はプレイしていないのです……なぜならスマホを持っていないから。
いまだに六年以上前に出たガラケーを使い続けているので、プレイできなくて歯がゆい限り……と言いたいのですが、FGOについてはちょっと複雑な想いを抱いています。

奈須信者をこじらせすぎて、「奈須さんが一人で書いたものじゃなきゃ認めないもん!」という気持ちがあるわけですよ。
奈須さんは「Fate/stay night」までは基本的に一人ですべてのシナリオを書かれていたわけですが、ファンディスクの「Fate/hollow ataraxia」からはほかのライターさんも参加されるようになりました。
まぁ、物量からいってノベルゲーを一人で執筆するほうが異常だったわけで、ほかのライターさんを入れるのは至極当然ではありますが、ファンとしてはちょっと微妙な気持ちで「Fate/hollow ataraxia」をプレイしたわけです。

そうしたら、普通におもしろかったわけです。
あれ? ほとんど違和感なく楽しめるぞ? と。

ここで「よかったー!」とはならないのが自分の面倒臭いところで、そうなるとますます奈須さん一人で執筆したものでなきゃ嫌だもんとなってしまったのです。
ほかのクリエーターによって奈須さんの領分が侵されているように感じてしまうというか……実際には奈須さんがディレクターとして深く関わっているので、アニメにおける監督のようなものだと思えばいいのでしょうが、僕のなかの奈須きのこは物書きと共同作業などせず、中二病をくすぐる設定と魅力的なキャラクターをこれでもかと押しだしていって奈須ワールドを構築し、熱を込めすぎて暴走寸前になったところを盟友の武内崇がバランスを取るのがいいのだ、というふうに(勝手に)思っていたのです。

きのこは孤高の作家なんですよっ! 菌糸類にほかの菌を混ぜたらいけません! 宿主である武内さん以外の声なんかに耳を傾けたらダメですからねっ! と、琥珀さんが叱るような口調で思うわけです。

なので、評判のいい虚淵玄さんの「Fate/Zero」も読んでいないし、アニメも観ていない。
「Phantom」や「鬼哭街」が大好きな虚淵ファンでもあるくせに。
こう、なんというか、好きなクリエーターだからこそ交わらないでそれぞれの作品を作っていてもらいたいというか。

なので、奈須さんが一人で書いている「魔法使いの夜」がついに出たときは欣喜雀躍して感涙しながらプレイしたのですが、FGOについてはどうしても手をだす気にはなれず……今回のバビロニアのアニメ化もパスしようかな、と思っていました。
むしろ、いまだに古いガラケーを使い続けているのは、うっかりFGOに手をださないように、という心のストッパーがどこかで働いているためかもしれません。
マシュって子のビジュアルがかわいくて気になるけど、面倒臭い奈須信者として――いや、きのこ原理主義者として固く操を守っていこう! と。

しかし、本放送に先立ってニコニコやAbemaで公開されたバビロニア0話が、あの高雄統子さんがコンテを描き、原田孝宏さんとアイマス以来のゴールデンコンビを組んで演出も手がけられていると知って、我慢できずに観てしまいました。

そしたらもう、クオリティが高いのなんのって。
番外編なため、さすがにストーリーの背景はよくわからなかったものの、ちっちゃいマシュめっちゃかわいいし、高雄さんの演出がとにかくキレキレで最高でした。
マシュのぼんやりした視線とか表情をうまく使って無垢さを演出したり、マシュがロマニと交流して心が色づいていくにつれて徐々に部屋に色つきの小物が増えていく演出とか、さすがの高雄演出でエモすぎます。ちっちゃいマシュめっちゃかわいいし。

赤井監督だし、副監督に黒木美幸さんがいるし(SideM最高でした)、キャラデザが高瀬智章さんだし、色彩設計が中島和子さんだし(動画工房の石黒けいさんと京アニの竹田明代さんと中島さんが僕にとっての色彩設計三大神)、アクションディレクターや作画監督に河野恵美さんや林勇雄さんや岡勇一さんといった神アニメーターが揃ってるし、CloverWorksだからそのうち石井俊匡さんが演出登板しそうだしで、どいつもこいつも強ェやつらばっかでオラわくわくすっぞ! という面子だったので、きのこ原理主義者の操をあっさり捨ててアニメシリーズを観ることにしました。

幸い、FGOの序盤にあたるシナリオが「Fate/Grand Order -First Order-」として難波日登監督によってアニメ化されています。
それでひとまず世界観がどんなものかを知ることができましたので、安心してバビロニアを観ることができました。
もちろん原作をプレイしてから観たほうが設定や背景は理解できるのでしょうが、いまのところこんな自分でもストーリーは追えていると思います。

こりゃそのうちガラケーからスマホに乗り換えるかもしれませんね。

次回、バビロニア10話の石井俊匡さんの演出を取り上げます。

2019年夏コミ(C96)の同人誌に載せた原稿について

今年の夏コミ(C96)に、例年通り「ラノベ作家休憩所」というサークルで参加します。
配置は、「コミケ三日目・8月11日(日)・西4地区 "B" ブロック 01b」となります。
今年の同人誌のタイトルは「爽快小説。」です。

告知サイト
コミケWebカタログのサークルページ(※閲覧にはサイトへの無料会員登録が必要です)

当日は自分と大樹連司(前島賢)さんと、たすきさんが売子をやる予定です。

このサークルの発行する同人誌に毎年オリジナルの短編小説を寄稿しているのですが、今年は「セルフスタンドに地上最強の男がやってきた!」というコメディを書きました。
文庫本換算で50Pほどですが、結構おもしろいものが書けたと思っています。

作品タイトルからもわかるようにセルフスタンドが舞台の話で、そこでアルバイトしている主人公の青年のもとに、客として無理難題をふっかけてくる「地上最強の男」がやってくる、という話なのですが、携行缶でガソリンを買うシーンが出てきます。

原稿の執筆時期は5月後半から6月2日までの10日間ほどで、6月中にほかのメンバーの原稿も揃い、7月12日に印刷所に入稿しました。
なので、例の京アニの放火事件(7月18日発生)に触発されてセルフスタンドの話を書いたというわけではありません。
入稿したあとに事件が起きたので、同人誌のあとがきで事情を説明することもできず、ひょっとしたら読者に誤解を与えるかもしれないと思い、この場で説明をさせて頂きました。

京アニの放火事件をネットのニュースで知ったとき、ショックのあまり現実のこととは思われなかった。
本当に、これは悪い夢かなにかなんじゃないかという、足もとがおぼつかなくなるようなふらふらした感覚がいまでも続いています。
まだ京アニから犠牲者についての正式な発表がありませんから長々としたコメントは控えますが、僕が尊敬してやまないクリエーターたちが多く犠牲になりました。
もちろん犠牲者がクリエーターでなかったとしても、なんの罪もない無辜の人びとが殺されていいわけがありません。
しかし今回は僕が若いときからずっと追いかけていて、以前このブログでも取りあげた方々が犠牲になったということで、大変な衝撃を受けました。

あまりにも理不尽な事件に、まだ気持ちの整理がついておらず、犠牲者のご冥福を満足に祈ることすらできずにいます。
ここ最近、珍しくブログ記事を立て続けに書いているのは、創作についてのことを書きながら少しでもなにかをやった気になろうとしているのだと思う。
成松さん(松智洋さん)が急逝されたときもそうでしたが、なにかをしなくちゃ、という焦躁感ばかりがつのります。

立命館大学新聞社・鶴颯人さんの『ロヒンギャへの道』

いま、小説を書くためにミャンマーで起きているロヒンギャ問題について調べています。
何冊か本を読んだりしているのですが、ロヒンギャ問題について書かれた本はそもそも少なく(とくに日本語で読めるものは)、あったとしても刊行が何年も前のものだったりします。

ミャンマーの情勢は刻々と変化していますから、もっとリアルタイムに近いものはないかとネットを探していたら、まさにうってつけのサイトを見つけました。

立命館大学新聞社のサイトで連載されている、『ロヒンギャへの道』という一連の記事です。
(※2019年10月6日追記。立命館大学新聞社のサイトがリニューアルしてアドレスが変わったので修正しました)

学生の方が実際にミャンマーまで行って、現地で取材して得た情報をもとに書かれています。
今年(2019年)の2月から連載が始まって、現在も続いています。
ミャンマーを取材したのは昨年のことのようですが、まさに彼の地の現実が見事に切り取られています。

当初、前情報なしに記事を読んでいったのですが、学生が書いているとは思いませんでした。
てっきり大学の先生やプロのライターが、仕事で渡緬して調査されているのだとばかり……。
それぐらい記事の質が高いのです。

ロヒンギャの人だけでなく、ラカイン人(ミャンマーの多数派の仏教徒)にも取材して、フェアに物事と向き合おうとしているのが文章から伝わってきます。
冷静と客観性を旨とする報道的な文章をベースにしながら、ところどころ書き手の率直な感情が流れ、むりなく読み手を現場まで連れていってくれます。
行動に裏打ちされた情報の質の高い文章で、月並な言い方になりますが『足で書く』ことを大切にし、しかもそうして流した汗を決して誇示したりしない。
いい文章だ。

記者は、鶴颯人さんという方。(Twitterはこちら)・(ブログはこちら
まだ二十代の大学生だと思うのだけれど、これだけのものを書けるのは本当にすごい。
『ロヒンギャへの道』だけでなく、立命館大学新聞社のサイトには鶴さんが取材して書かれた記事がいくつもあって、その実力のほどがうかがえます。
たとえば、『バンコクの性産業と日本人』という記事一つ見ても、こんな充実した文章を書いているのが大学生だなんて信じられます?
(※2019年10月6日追記。立命館大学新聞社のサイトがリニューアルしたことでどうやら『バンコクの性産業と日本人』の記事が消えてしまったようです。残念)

きっと五十年近く前、若いときの沢木耕太郎さんを初めて知った当時の人たちも、同じような印象を持ったんだろうな。

『ロヒンギャへの道』、ぜひ書籍化して欲しいですね。

僕がいま書こうとしている小説、これまで自分が書いたことのないタイプの作品になる予定なので、出版どころかちゃんと完成できるのかすら自信がないのですが、僕も若い人に負けないようがんばろうと思います。

(※2019年10月6日追記。鶴颯人さんのTwitterを見ると、『ロヒンギャへの道』は打ち切りとなってしまったようです。詳しい事情はわかりませんが、良質な連載だっただけに残念です。しかし現在でもリニューアルしたサイトでこれまでの記事を読むことができます。これからも鶴颯人さんという書き手に注目してまいります)
書いてる人

藍上 陸(Ranjo Riku)

藍上 陸(Ranjo Riku)
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1985年生まれ。最近ちょっと病気で体調ががががが。

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