『表現の強さとはなにか?④』娯楽におけるリアリズム(最終回)

過去に三度、『表現の強さとはなにか?』と題してシリーズで記事を書いてきました。(

この最終回では、これまでのことを踏まえて現時点での自分の答えを書いてみたいと思います。

連載二回目の記事で、

「文章で説明した内容の必然性を、読者に訊かれたら説明できるようでなければならない」

こういう二重の「説明」の意識があれば、よけいなことは書かなくて済むのではないか。(オッカムの剃刀に近い考え)


と書きました。
「描写」や「語り」や「文体」といった偉そうなマジックワードに囚われ、自己満足的でかったるい表現に堕ちないためには、「説明」という即物的な概念で作品を作り上げていったほうがよいのではないか。
この説明を重視する考えは、基本的にはいまでも変わっていません。

しかし、この考えはともすれば「説明しやすいものしか書かなくなる」という危険性を孕みます。
説明しやすいものとは、「流れに従順なもの」と言い換えることもできます。

「おもしろい物語」を作る方法はいろいろあるでしょうが、その一つに受け手に劇的なドラマを体験してもらう方法があります。
ドラマとは、受け手に「必然」を感じてもらうことが必要である、と自分は考えます。
「作者のご都合でこういう展開になった」と思われてしまうとよくありません。
「この主人公がこんな目にあったのは運命的な必然なのだ」と受け手に感じてもらい、それをクライマックスでひっくり返し、説得力のあるラストへ持っていく。
ドラマティックな展開とはそういうものだと思う。

富野由悠季監督の「映像の原則 改訂版」の38ページに、「小さな動機(モチーフ)の積み重ねがストーリー」という見出しで、以下のような文があります。

4873767369
映像の原則 改訂版 (キネマ旬報ムック)

 さて、以上をふまえて映像作品における〝物語〟を規定しましょう。
 物語=情の発展性(〝堕落する〟でも〝する〟という発展性がある)です。

(中略)

 つまり、ベッドシーンの後に、赤ちゃんが生まれればいいのです、という言い方もあります。バトルシーンの後に、ヒーローは勝ったのだが家族はいなくなった、というような発展的描写が必要なのです。ラブシーンの後は、ひとり残ったヒロインが、その相手に対して復讐の刃をみがく、というシーンがなければならないというようなことです。
 そのうえで、物語が寓意(普遍的な意味)を持ち、プロットが観客を感動させればいう事なしということになります。


言うなれば、物語の要素を「だからこうなった」という関係でつなげていけば、それがドラマティックに発展していきやすいのだと思います。

これは因果関係の連鎖ですから、大きな流れとなり、「説明」しやすくなります。
同時に落とし穴もあり、「説明しやすいようなモティーフや物語展開、表現しか用いなくなる」というおそれがあります。

読者の立場から、しばしば「この作品、おもしろいはずんだけどいまいち印象が弱いな」と感じることがあります。
その理由はさまざまでしょうが、「物語の流れが良すぎるがために、読者の印象に残りづらくなった」という面もありそうです。

作品の要素をマクロな構造でもミクロな表現でもすべて説明できるようにした結果、作品が小さく狭くなり、受け手が解釈して膨らませる余地を潰してしまうのです。
これは文学の評論でしばしば言われることで、文学賞の選考委員などもよく選評で「作り込みすぎて読者が小説の中で遊ぶ余地がない」だとか「物語というのはそれだけで通俗的なのだから、いっそもっと娯楽に振りきるか、文学にするのなら作り手や語り手に批評的な視座が必要」というような趣旨のことを言ったりします。

僕は昔、純文学の賞の選評を雑誌で読んで、「物語があるだけで通俗って、この選考委員は物語を馬鹿にしてるのだろうか」と眉をひそめたことがありましたが、きっとそうではないでしょう。
物語(ドラマ)というものの性質が、モティーフ同士が因果関係でつながり発展していくことでカタルシスに到達する性質のものであるため、どうしても流れが良くなりすぎて「自動化」が発生してしまうのです。

自動化されたものは説明がしやすく、説明のしやすさは安易さにつながります。

その自動化を防ぐためには、物語とはべつに、「作り手が説明しづらいもの=受け手が理解しづらいもの」を意識的に入れ込んでいく必要があるのではないか。
容易に自動化されない、作り手の確信でもって行われる、物語とはべつの強固な「こだわり」。
それが「強さ」の源になるのではないだろうか。

その「こだわり」は作家によっては文体なのかもしれない。
己の審美眼に根ざした文章を強固に構築することで、物語の自動化に抗う。
純文学に多いのですが、この場合、文章は徹底的に自己中心的でわがままでなければいけない。読者の便宜を考えると容易に物語の自動化に呑み込まれ、単に読みづらく見所のない作品になってしまう。

志賀直哉の「暗夜行路」を評して、「常軌を逸した居丈高さ」と言った論者がいたそうですが、それはきっと主人公の時任謙作の性格だけではなく、作者の志賀直哉の書きっぷりがあまりにもゴーイングマイウェイだからでしょう。
志賀直哉の作品は全般的にストーリーがはっきりしないものが多く、そういう点ではおもしろいとは言い難いのですが、しかし作品から受ける迫力はすごいものがあります。
ATOKと連繋した「大辞林」で志賀直哉の項目を調べると、「強靭 (きようじん)かつ純粋な自我意識と明晰 (めいせき)な文体によって,独創的なリアリズム文学を樹立した。」とあり、なんだか物は言いようだとちょっと笑ってしまいます。

「作り手が説明しづらいもの=受け手が理解しづらいもの」としては、ほかにも「テーマ」が挙げられると思います。
このテーマという概念もマジックワードで、脚本や小説のハウツー本でもよくテーマの重要性が強調されますが、人によってテーマの定義は微妙に異なっています。
「作者のメッセージ」であったり「物語を貫く概念」であったり「作品を一言で表したもの」であったり「設定の要になるもの」であったり……テーマとコンセプトの違いも曖昧だったりします。

よく映画監督がインタビュアーから「この映画のテーマはなんですか?」と訊かれ、多くの場合は明確に答えないではぐらかすのも、「口でテーマを言うのは野暮だから」という理由も無論あるのでしょうが、そもそもインタビュアーの言っているテーマがなにを指しているのかわからないから、というのもありそうな気がします。

「テーマを口で言ってしまったら作品を見る必要がなくなるじゃないか!」という意見のクリエーターもいますし、「テーマなんて簡単に言えるものじゃない。だから長々と作品にして伝えるんだ」という意見の人もいます。
もうテーマという概念がどういうものかわけがわかりません。

なので、いっそのことテーマの普遍的定義はないと開き直ってみたらどうでしょう。
テーマが作品ごとにまちまちであるように、テーマの定義も作者によってまちまちでいい。
そもそも作品からテーマを切りだしてそれだけ人に伝えたところでどれだけの意味があるかわかりませんし。(批評家の人とかは定義がばらばらだと困るだろうけど)

どのような定義であれ、「テーマ」は「ストーリー」という概念とは完全に同一ではない、ということだけは言えそうです。(完全に同一であればそもそもテーマなんていう概念をべつに用意する必要はない)
ならば、それぞれの定義に従ってそれぞれのテーマを強烈に突き詰めていけば、おのずからストーリーの自動化から脱却できるのではないか。

純文学では、物語を縦につなげていく「だからこうなった」式の展開はそこそこに留め、「そしてこうなった」と横につなげていくやりかたが多いように思います。
因果関係に根ざした縦の流れよりも、並列的な横の広がりを作り、そのぶん各ディテールを詰めていくことで安易な「自動化」から逃れようとしているのです。
その横に広げるときに、不可視の「テーマ」が重要になります。

文学の場合、読み終わったあとに読者が「テーマ」を明確に把握できるような作り方はむしろ悪いとされることが多いです。
どうやら安易に一つの解釈にまとめようとさせない「外し」が大切なようで、そこが文学の呼吸でありおもしろさであるようです。
もっとも、そういう外すやりかたも形式的に硬直化すると、自動化した物語の流れと差異がなくなっていってしまいます。

世界設定(俗に言う世界観)にこだわるというやりかたもあります。
押井監督の映画演出に、BGオンリー(背景のみ)のカットをいくつもつなげたり、カット内にキャラはいてもしゃべらせずにただ黙々と歩かせるだけといったものがあります。
この場合、物語はあまり進展せずに停滞し、それによって世界観を視聴者に提示するわけです。
逆に、キャラに意味のないことを饒舌にべらべらとしゃべらせるやりかたもあり、これはあまりにも多くしゃべらせることで会話の意味を無効化し、むしろ台詞外のことに注意を向けさせるという手法で、先に述べた「無言」の演出と本質的に接近します。

映像はビジュアル媒体ですから、そういう風に人物抜きの表現が成立しますし、漫画においてもたとえば三浦建太郎氏や五十嵐大介氏の作品などは画集としても読めるような美しい世界が展開されます。

世界観という包括的な概念に対し、もう少しミクロな視点からの世界へのアプローチとして、「風景描写」というものがあります。
日本の文学は万葉の時代から花鳥風月を歌ってきました。
現在でも文学においては、風景描写のうまい作家が高く評価されます。
一方で、高見順が「描写のうしろに寝てゐられない」で「自然描写はかなはん」といったように、その手の文章は物語を停滞させ、キャラを立てることにもつながりづらいため、敬遠する読者もいます。
僕自身、文学作品における風景描写はあまり好きではありませんでした。(前回述べたように「描写」という偉そうな概念が暴走していると感じていました)

しかし、「表現の強さ」というものに着目したとき、娯楽小説における風景描写というものは、物語の自動化から逃れることに一役買ってくれるのではないかと思うようになりました。
これまで自分が書いてきたライトノベルでも物語展開の必要に応じて自然や街の風景などを書いてきたのですが、これからは物語展開の必要に応じなくても、積極的にそういう表現をとっていいのではないか、と考えています。
テニスの試合中に、コート上空をヘリがただ飛んでいく様を文章で堂々と書いてもいいのです。

また、世界観を構築するために作中の様々な設定に凝るというやりかたもあります。
奈須きのこ氏の作品のような、設定資料を読んでいるだけでも楽しくなってくる壮大な世界の広がりです。
これはSFというジャンルも大変得意とするところです。

以上、「物語の自動化」から逃れるために、さしあたって「文体」・「テーマ」・「世界観(風景描写・設定)」を挙げました。
もちろんほかにもあるかもしれません。

そしてここが重要なのですが、これらを有効に機能させる(物語の自動化の流れから読者をすくい上げる)ためには、「リアリズム」が必要かもしれないということです。

告白すると、自分はこれまでリアリズムという手垢のついた概念や手法を毛嫌いしてきました。
私小説の文学者たちにしばしば見られる自意識――たとえば滝井孝作が「自分の作品は実体験に基づいているからこしらえものではない」と語ったような自負――を素朴すぎるリアリズムと思い、それが文学の権威主義につながるとして嫌悪してきました。

「見て感じたことをありのまま書くのがよいのだ」という態度を、僕は「田舎の旦那芸」と呼んで馬鹿にしていました。
僕自身が田舎者だからよくわかるのですが、無教養な田舎者は抽象的に洗練された表現を理解しないことが多いのです。
装飾品といったら金やダイヤを使ったキンキラキンのいかにも高そうなもの、豪邸といったら土地が広くて大きな庭と屋敷と立派な門が設えてあるもの、良い絵画とは写真のようにリアルなものを評価するのです。

関川夏央氏の「東と西 横光利一の旅愁」に、横光利一にまつわるおもしろいエピソードがあります。
戦前に横光がヨーロッパ旅行へ行くとき、暑い東南アジア経由の船便なため、麻袋からとったような粗い麻のスーツを仕立てました。
服に興味がある人はご存じでしょうか、麻の服は通気性と速乾性がよく、夏場に最適なものです。
しかし綿以上に皺がつきやすく、近年は改善されたもののかつては色染めも難しく、しかも生地に伸縮性や熱可塑性がないため仕立てるのに高度な技術がいるという通好みな服地です。
船の中で知り合ったイギリス人などの西洋人は、横光のスーツを見て「ホームスパン!」と高く評価していたのですが、補給のために立ち寄ったアジアの港にいる途上国の人間は横光の格好を見て彼の懐具合を心配したというのです。

田舎の若旦那が暇を持て余し、いっちょ文化でも身につけてやるかと絵画などを始めると、いかにも西洋画でございといった「リアルな」風景画を描いたりします。
それを近所の年寄りに見せびらかして、その人たちもその人たちで「おう、まるで写真みてえにうまい絵じゃねえか、若旦那やるねえ」とおだてて、若旦那がやに下がっている……。
落語の「寝床」じゃありませんが、僕は素朴なリアリズム信仰をそういう田舎の旦那芸的なものとして見てきました。
極端に嫌っていたある時期などは、落語家が扇子を使ってこれみよがしにリアルに蕎麦をたぐる仕草すら毛嫌いしていたものです。
それはリアルかもしれませんが、リアルという一種の記号です。
共感されやすいリアルな表現をあからさまにすることで、送り手と受け手とのあいだに生じる「馴れ合い」の雰囲気が鼻につくのです。

しかし、娯楽におけるリアリズムは、そういう受け手との微温的な共犯関係を築くことはありません。
むしろ逆で、物語の流れを塞き止め、意味を氾濫させ、読者の解釈を広げる役割を持ちます。
これは読者に集中と緊張を強いるものです。

娯楽小説、ことに二次元のキャラを前提にすることの多いライトノベルの場合、心地良い物語の流れの中に突如として割り込んでくる各種のリアリズム(文体・テーマ・世界観など)は、「物語」という自己完結性をもった要素と時に激しく対立します。

本来一つのまとまりとして受容される作品の内部で、物語とリアリズムが激しく格闘する――書き手にも容易には「説明」できない「事態」が本の中に出来するのです。

それはときに作品バランスを壊し、傷ともなるでしょう。
しかしその傷を怖れ、慣れた医者の手つきで早々に縫合するのではなく(それは政治的な処世術に等しい)、むしろその傷を肯定的にとらえ、これぐらいの傷がついたほうが物語もリアリズムも男振りが上がって結構だ、と猪武者のように開き直る蛮勇が作家には必要なのではないでしょうか。

連載一回目の記事で、開高健の「完全燃焼の文体」という概念を取りあげました。
コン・ティキ号探検記」や「ちょっとピンぼけ」の文章が、どうして上質な蒸留酒のように胃にもたれずに心地良く完全に消化されていくのか。
それは、作者が自身の体験した「現実(リアル)」としっかり向き合っているからだと思います。
もっとも、「リアリズム文学を作ろう」と変に肩に力をこめてしまっては、リアル自体が記号化され、田舎の旦那芸になってしまいかねない。

物を書くという行為はそもそもが不自然なことです。
自分が体験したことを文章だけに落とし込むことが、いかに無茶な行為か。書き手は常に、体験と想像(イメージ)と文章とのあいだの谷底に悩まされます。

読者に受けるものを書こう、という下心は、おそらく娯楽作家だけでなくノンフィクション作家や純文作家にもある。
だから、いたって即物的にリアリズムに基づいて書く、という態度は、それ自体が作品の中で激しい「対立」を生じさせます。それはそのまま作家の葛藤でもあり、世界(作品内世界や現実世界)における矛盾でもあるのです。

その対立を低い次元で調和させようとするのではなく、無理に抽象的な概念を持ちだして止揚するのでもなく、傷口や矛盾のありようをそのままさらけだして読者に突きつける。
読者はそこでたじろぐのです。
これはただごとではない。容易な理解を拒む、端倪すべからざるなにかがあると。

以上のことが、「表現の強さ」の精髄であると自分は考えます。

なお、これは岡本太郎の「対極主義」の考えにとても近いものです。

抽象と具象、男と女、平和と戦争――そういった二項対立を同一のキャンバスに描き、折衷も止揚もさせず、容易に和合することのない二項の対立の裂け目を生々しく見せつける――

対極主義を簡単に述べると以上のようになるでしょうか。(岡本太郎は「主義」という硬直した言葉を嫌い、後年は単に「対極」とだけ言うようになります)
自分は岡本太郎から多大な影響を受けていますが、体系的に岡本の思想を語れるだけの力をまだ持っていませんので、ここでは対極主義の考えから影響を受けたと述べるに留めます。
(なお、岡本の対極主義については、東京国立近代美術館が公開している大谷省吾氏のすぐれた論文(PDF)が参考になります)

予定調和的な物語の流れに逆らう「破調」を意識的に持ち込むには、歴史ある文学のやりかたを参考にするという手がありますが、しかし僕はむしろ文学以外から示唆を受けたほうがいいと思っています。
文学は文学で、(通俗的とされる)物語とどう付き合っていくのかという点について、あまり深い考察がなされていないように思えるのです。
文学においてはどんな物語が可能なのか、許されるのか、その点に言及する文学者は少なくないのですが、文学はもともと「だからこうなった」式のドラマを意識して作らずとも成立する媒体であるため、文芸雑誌を読んでいても納得できる意見にはなかなか出会えません。

なので、娯楽作家にとって参考になるのは、むしろマンガやアニメやゲームなどの他の娯楽ジャンルのすぐれた作り手たちの知見だろうと僕は思います。
かつてマンガやアニメが小説や映画から大きな影響を受けて成長し、ビデオゲームがマンガやアニメから大きな影響を受けて成長していったように、小説という古いジャンルもまた他のジャンルから学んでいくことが必要だと考えています。
娯楽としての小説をこれからも残していきたいのならば、なりふり構っていられません。

さしあたって、マンガやアニメなどの二次元のキャラを使った表現ジャンルが「リアル」とどう向き合い、表現してきたのかをこれから意識的に見ていこうと思っています。

最後になりますが、これまで考察を進める便宜上、「おもしろい」と「強い」をべつのものとして扱ってきましたが、この二つは実際には分離できるものではなく、相補的なものです。
自分が「表現の強さ」に惹かれ、自分でも実践したいと思ったのも、そういう表現がたまらなくおもしろく、昂奮をもよおしたからに他なりません。

『表現の強さとはなにか?③』物語の自動化に背く

前回の続きです。
三回目は、アニメをとりあげて表現の強さを考察してみます。

創作には「おもしろい」だけでなく「強さ」というべきものがあるのではないか――
それを考えるようになったのは、押井守監督が1994年に上梓された【METHODS ~押井守「パトレイバー2」演出ノート】という本と出会ってからでした。
僕が読んだのはたしか2016年の1月だったかと思います。
長らく絶版で手に入らなかったのですが、復刊ドットコムさんが復刊してくれて、ようやく手に入れることができたのでした。

「METHODS」は、映画「機動警察パトレイバー2 the Movie」のレイアウトを多数掲載し、監督みずからその演出意図を一つ一つ解説した本です。

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「METHODS」はいまでも多くのアニメーターや演出家や美術家に読まれ、影響を与えつづけています。
(なお、同様の本に【「イノセンス」METHODS 押井守演出ノート】というのもあり、こちらは映画イノセンスのレイアウトを解説されています。こちらもおすすめです)

クリエーターが自作の分析を披露するこの手の解説本は、名著「石ノ森章太郎のマンガ家入門」の巻末解説で島本和彦氏が喝破されているように、あらかじめ理論があってそれに沿って作品を作ったというより、作者が自作を読み直したときにそこにある法則性を発見し、それを解説したケースのほうが多いと思います。
石ノ森章太郎であれ押井監督であれ、解説本の中で披露されているロジックは、すべてがすべてあらかじめ考えられていたわけではないでしょう。

どの段階でクリエーターが自身のやりかたを自覚したかはさておき、そこで披瀝されるロジックにはそのクリエーターの考え方の精髄が含まれていることも少なくありません。

以下に、【METHODS ~押井守「パトレイバー2」演出ノート】の45ページ目から、僕が考えを変えるきっかけになった押井監督の記述を引用します。

 一篇の映画を構成するカットの中には、ストーリーの展開に全く貢献しないカットも必要です。敢えて言うなら「物語そのものを疎外し、異化するための意味不明なカットやシークエンスや設定」もまた必要になります。
 全てのカットが〈物語〉を構成する部品として必要十分にその機能を果たし、かつ緊密な計算のもとに並べられているとすれば、それは演出家にとって理想といえるフイルムかもしれませんが、映画を構成するあらゆる要素が、ただ物語を実現するためだけに機能するのであれば、映画は所詮「物語の器」であるに過ぎないことになります。
 実際には映画は見られることで様様な解釈を生み、演出家の思惑を越えた〈映画〉として体験されます。そしてそれこそが〈映画〉という自由で若い形式の特筆すべき長所であり、そして可能性でもあるのです。映画の演出という作業を、その最も本質的な部分まで射程に入れて考えるならば、こうした演出の限界はそのまま演出の可能性でもあります。
 映画は一般にどんな単純な作品でもこの種の読み替えの余地を残すものであり、量産による作品構造の純化や撮影時の偶然、俳優との出会いなど〈偶然〉の介入によって、アクション映画が奇妙に普遍的な世界観を実現するような、そんな幸福な瞬間に出会うことがあります。一方でアニメは一般に実写作品に較べて情報量が圧倒的に少なく、(それゆえに表現や構造をコントロールしやすいというメリットもあるのですが)この種の〈偶然〉と遭遇することは稀です。量産されるTVシリーズに較べて、謂わば一回勝負である映画草品の場合は特に〈偶然〉を孕みにくく、これがアニメ作品が同じ映画の構造を持ちながら「所詮は漫画」であり「底が浅い」という印象をもたらす原因のひとつともなっています。

(中略)

 アニメが、アニメであることの限界を抱えつつ、世界の奥行を実現して〈映画〉に到達する方法とは何か?
 その試みが〔鳥のいる風景〕です。「P2」に登場する鳥たちにはどのような象徴的な意味もありません。強いて言うならば、それはこの作品で描かれた「世界」と「物語」に混入されたノイズであり、記号の体系を掻き乱すための異質な記号そのものに他なりません。本篇の外側にあって物語をアウトレンジし、作品を自律的に完結させようと目論む演出家の意図を長距離から射程に収め、射程に入れるそのことだけで脅威となる厄介な長距離砲。
 それがつまり〝鳥〟なのです。
 鳥をあちこちに出没させる作業にとって、レイアウトという工程が格好であることは言うまでもありません。



かなり長い引用になってしまいましたが、どのセンテンスも押井監督の創作観を現す上でとても重要なものだと思います。
僕はこれを読み強いショックを受けました。

押井監督におっしゃっていることは、実は文学の世界ではしばしば言われることではあるのです。
引用文で監督自身が仰っているように、「異化」というのはシクロフスキーのロシア・フォルマリズムの用語で、日本では大江健三郎氏が「新しい文学のために」でその異化について語り、実作においてそれを効果的に使われています。

また押井監督に書かれた「物語そのものを疎外し、異化するための意味不明なカットやシークエンスや設定」というものについての文学の実例は、たとえばデイヴィッド・ロッジの「小説の技巧」の中で多くの実例が紹介されています。
日本では筒井康隆氏の「創作の極意と掟」において、自作やヘミングウェイなどの作品を引いて、豊富に紹介されています。(有名な「文学部唯野教授」の段階ですでに異化が扱われています)

前回の記事で少し書いた、純文学にまま見られる「よそ見描写」も、異化的な効果を狙ったものもあるでしょう。

僕が押井監督の文のどこに驚いたかというと、自分の中で文学(純文小説や詩など)において使われていた異化を始めとする効果を、「エンタメのアニメ映画」で狙って行っているということにでした。

文学理論は実作者の立場から提唱されるものもありますが、学者や評論家が作り上げたものも少なくありません。
ともすれば理論が難解になりすぎ、実際の創作に使いづらかったり、使ったとしてもそれは理論をわかってる人にしか理解されない作品になってしまうこともあります。
創作をより良いもにするための理論ではなくなっているケースもあるように見受けられるのです。

それを押井監督は商業アニメの中に持ち込みました。
アニメの中に文学的な雰囲気や社会学的な知見を入れようというのは(文学的ってなんだよというツッコミはさておき)、たとえば高畑勲監督の1968年作「太陽の王子 ホルスの大冒険」ですでに積極的に行われていましたが、文学理論をアニメに持ち込んでフィルムを作ろうとしている人は少ないでしょう。

もっとも、押井監督の使う「異化」という概念は、シクロフスキーや大江健三郎氏の使う「異化」とはやや意味合いが異なるように感じます。
本来の異化は、日常的で使い慣れてしまった言葉や概念を、新鮮なものとして読者に受け取ってもらうの方法といえます。
押井監督の場合は、「映画」という映像体験を、視聴者にもう一度新鮮なものとして味わって欲しいという狙いがあるように見受けられます。
当たり前に消費される映画体験の「自動化」から視聴者を逃したい、というわけですね。

もう一度「METHODS」45ページの引用文に戻ってみますと、押井監督は「物語そのものを疎外し、異化する」という風に言葉を使われています。
そのあとの引用文と合わせて推測するに、線上に続いていく「物語」の流れをあえて邪魔するような「異物」を混入することで映画の情報量を増し、ひるがえって視聴者に物語の流れを再考してもらう効果があるのだと思います。
言葉を変えれば、視聴者に映画に対する批評眼を身につけてもらうため、とも言えるかもしれません。

上記引用文の最後に、「鳥をあちことに出没させる作業」というのが出てきますが、パトレイバー2ではさまざまな場所に「鳥」のモチーフが出てきます。
これはこの作品に限らず、それ以前からの押井監督の特徴によく挙げられていて、カルト的な人気のある「天使のたまご」でも鳥が登場しますし、個人的に大好きな「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」でも同様です。

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識者によっては、押井作品によく出てくる「鳥」や「魚」を聖書に登場するモチーフとして象徴的に解釈する方もいるようです。
実際、他作品ではそういった狙いもあると思うのですが、「パト2」に関しては押井監督の言葉に従えば、なんの象徴的な意味も持たず、『「世界」と「物語」に混入されたノイズ』ということになります。

METHODS ~押井守「パトレイバー2」演出ノート】の43ページより。
このレイアウトに見える大きな鳥は、トラックの側面に描かれている。

METHODS.jpg


鳥のレイアウトだけを見ても、物語を突き放すという押井監督が狙った効果は伝わりづらいでしょう。
実際に「パト2」の映画を観て頂くのが一番よいと思いますが、押井作品とはべつの作品で好個の例がありましたので紹介します。

出崎統監督の1979年作品「劇場版 エースをねらえ! 」です。

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この中で、主人公の「岡ひろみ」と「竜崎麗香(お蝶夫人)」の二人が組んでダブルスの試合をする場面があります。
二人はライバル関係ですので、最初はうまく連繋がとれず相手ペアに押し込まれてしまいます。
ファーストセットを取られてしまったあと、インターバル中に二人はコーチの宗方仁から指導を受けます。
そして再び試合に戻るのですが、そのときコート上空をなんの脈絡もなくヘリコプターが通過します。

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このシーン、最初観たときは本当にびっくりしました。
このヘリコプターはただ意味もなく通り過ぎるだけです。
物語の進展になんの寄与もしませんし、象徴的な意味も読みとれません。
たとえばこのヘリに、試合を中継しているテレビクルーが乗っているのだとすればそこには「物語」に絡んだ意味が発生します。
あるいはこのヘリと試合中のプレーになんらかの関係性(必殺サーブの名前が「ローターブレード・サーブ」とか)があった場合も、ヘリをだすことでそこに象徴的な意味が生まれます。

しかし何度繰り返し見直しても、このヘリの登場は唐突で、それ以降もなんの意味も与えられていない。
しかしそれが逆に、この映画をとても印象的なものにしています。
原作のマンガも読んだのですが、試合中にヘリは一切登場していませんから、これは出崎監督の演出なのはまちがいありません。

この「エースをねらえ!」はスポ根の殿堂に入れられているほどのものですから、ストーリー的には王道で、とくに予想を大きく裏切るような展開はありません。
しかしこの唐突なヘリの闖入によって、映画はとても印象深いものになっています。
観終わってから時間が経過し、ストーリーの流れをほとんど忘れてしまっていても、このヘリの登場はいつまでも記憶に残る方が多いでしょう。
ネットで感想を検索すると、やはりこのダブルスの試合でのヘリに言及している人が何人もいました。

実は、押井監督もこの「劇場版 エースをねらえ!」を繰り返し観て、アニメ映画について勉強したそうです。
情報がWikipediaからの孫引きになって申し訳ないのですが、押井守監督のページの出崎統監督にまつわる項目にそう書いてあります。(ソースの雑誌をチェックしたいけど絶版で手に入らない!)

押井監督は、2018年に上梓した「シネマの神は細部に宿る」の中でも、映画はストーリーではなくディテールが重要である、ということを強調されています。
また、映画とは再会するものである、とも言い、印象的なディテールの作り込みによっていつまでもワンカット・ワンシーンが視聴者の記憶に残り、ストーリーを忘れられても何年もあとになってまた見返してもらえ、そこでまた映画と再会してもらえるとも書いています。
このことから、「METHODS」のころからいまに至るまで、創作に関する基本的な考えは変わっていないものと推察できます。

さて、これまで三回に渡って書いてきたことを前提に、次の最終回では「表現の強さ」とはなにか、現時点での自分の考えをまとめてみます。

2019年夏コミ(C96)の同人誌に載せた原稿について

今年の夏コミ(C96)に、例年通り「ラノベ作家休憩所」というサークルで参加します。
配置は、「コミケ三日目・8月11日(日)・西4地区 "B" ブロック 01b」となります。
今年の同人誌のタイトルは「爽快小説。」です。

告知サイト
コミケWebカタログのサークルページ(※閲覧にはサイトへの無料会員登録が必要です)

当日は自分と大樹連司(前島賢)さんと、たすきさんが売子をやる予定です。

このサークルの発行する同人誌に毎年オリジナルの短編小説を寄稿しているのですが、今年は「セルフスタンドに地上最強の男がやってきた!」というコメディを書きました。
文庫本換算で50Pほどですが、結構おもしろいものが書けたと思っています。

作品タイトルからもわかるようにセルフスタンドが舞台の話で、そこでアルバイトしている主人公の青年のもとに、客として無理難題をふっかけてくる「地上最強の男」がやってくる、という話なのですが、携行缶でガソリンを買うシーンが出てきます。

原稿の執筆時期は5月後半から6月2日までの10日間ほどで、6月中にほかのメンバーの原稿も揃い、7月12日に印刷所に入稿しました。
なので、例の京アニの放火事件(7月18日発生)に触発されてセルフスタンドの話を書いたというわけではありません。
入稿したあとに事件が起きたので、同人誌のあとがきで事情を説明することもできず、ひょっとしたら読者に誤解を与えるかもしれないと思い、この場で説明をさせて頂きました。

京アニの放火事件をネットのニュースで知ったとき、ショックのあまり現実のこととは思われなかった。
本当に、これは悪い夢かなにかなんじゃないかという、足もとがおぼつかなくなるようなふらふらした感覚がいまでも続いています。
まだ京アニから犠牲者についての正式な発表がありませんから長々としたコメントは控えますが、僕が尊敬してやまないクリエーターたちが多く犠牲になりました。
もちろん犠牲者がクリエーターでなかったとしても、なんの罪もない無辜の人びとが殺されていいわけがありません。
しかし今回は僕が若いときからずっと追いかけていて、以前このブログでも取りあげた方々が犠牲になったということで、大変な衝撃を受けました。

あまりにも理不尽な事件に、まだ気持ちの整理がついておらず、犠牲者のご冥福を満足に祈ることすらできずにいます。
ここ最近、珍しくブログ記事を立て続けに書いているのは、創作についてのことを書きながら少しでもなにかをやった気になろうとしているのだと思う。
成松さん(松智洋さん)が急逝されたときもそうでしたが、なにかをしなくちゃ、という焦躁感ばかりがつのります。

『表現の強さとはなにか?②』描写というマジックワード

前回の記事では、小説に限らず創作においては「おもしろさ」のほかに「強さ」というものが必要なのではないか、という話をしました。

ではその「強さ」とはなにか?
そんなもの、ただの抽象的な言葉遊びなんじゃないの?
という自己批判から今回の記事を始めてみます。

僕は長らく、そういう抽象的で偉そうなマジックワードのせいで、創作の本質がわからなくなっているのではないか、と批判的に考えていました。
(いま使った「本質」っていうのもまさに抽象語ですね。日常系アニメに対する批判でしばしば使われる「あのアニメには〝中身〟がない」というのもそう)

文芸誌などで評論を読んでいると、自明なものとして使われている文芸用語の定義が、評者によって微妙に異なっていることに気づきます。

たとえば、「描写」という言葉がありますが、それって一体なんだろう?
きっと作家や評論家によって返ってくる答えはまちまちでしょう。

2006年、僕が二十一歳のころ、デビューさせてもらったレーベルの編集長から、面と向かって「説明ではなく描写をするべきだ」というお言葉を頂戴しました。
そのときは「ははあ」とうなずいたわけですが、でもそれからしばらく経ったあるとき、ふと「説明と描写ってどう違うんだ?」と思ったわけです。

おそらくその編集長がおっしゃりたかったことは、「読者に臨場感を与えるように書け」ということだったのでしょう。
たんに出来事の羅列ではなく、読者を食いつかせるようにおもしろく書けと。それが描写であり、小説であると。
当時の僕はそのように受け取りましたが、でもそれって「うまい説明」と呼んでは駄目なのだろうかと、いまとなっては思うわけです。
「描写」と言わず、「うまい説明orへたな説明」「効率の良い説明or効率の悪い説明」「省略のある説明or省略のない説明」「五感に訴える説明or五感に訴えない説明」……このように書いたほうがより具体的ではないか?

また、僕は以前、「描写」というものは時間の流れがともなった表現だ、と考えていたことがありました。
たとえば戦闘シーンなどがそれで、「パンチを放ったら相手がよけてキックを繰り出してきて、それを手で払って」というような、刻一刻と状況が変化するものを、「時間の流れに沿いながら」書いていくものが「描写」だと。
一方、「説明」というものは、時間の流れを読者に感じさせないもの、情報を要約したものだと考えていました。
たとえば「この建物は三階建てで、間取りはこうで、材質はこのようなもの」という感じが「説明」だと。

動的表現が「描写」で静的表現が「説明」と考えていたわけです。
しかしいろいろと文芸評論を読んでいくと、どうもそういう定義をしている人はほとんどいないらしい。
また、動的・静的といっても、表現をする上で対象をそのどちらかに劃然とわけることはできません。
たとえば主人公が森の中に入って、自然の光景を目で追っていくだけにしてもそこには確実に時間の流れが生じます。
また、戦闘シーンにしても、その書き方によっては時間をぐんと引き延ばすこともできれば、あとから振り返ったように要約的に書くこともできます。

やはり「描写」と「説明」の違いはよくわからない。
ならば、いっそすべて「説明」でいいのではないか。
「時間の流れをよく感じさせる説明」もあれば「あまり時間の流れを感じさせない説明」もあるということでいいのではないか。

「描写」という言葉には、いわくいいがたい立派そうな雰囲気が漂っています。
「あの作品は描写がうまい」とか「描写のひとつひとつに作者のすぐれた鑑識眼ひいては人生観が宿ってる」とか。
極言すれば、明治以降の西洋から影響を受けた近代文学は、「描写」という概念を中心に回っていました。
明治三十年代以降、言文一致を推し進めた文学者たちが盛んに口にしたのが描写だし、その実践として自然主義の作家たちは「描写=近代的リアリズム」の観点から、あけすけで生々しい描写を駆使した作品を書こうとしました。
(岩野泡鳴の「一元描写」、田山花袋の「平面描写」、正岡子規・高浜虚子の「写生」など)

そういった描写偏重の風潮に対し、高見順は「描写のうしろに寝てゐられない」という短い小説論のなかで、「自然描写はかなはん」と書き、物議をかもしました。
「描写は文学に於ける民主主義」のはずなのに、現在(この小説論が書かれたのは1936年)はこの民主主義の前提である読者と作者との協力関係が構築できない、「客観的共感性への不信」があるという趣旨のことを高見は書きました。
「描写」を神聖視していた当時の文壇からはかなり反発があったようですが、個人的に高見の言い分にはうなずける部分がかなりあります。
しかし、やはり高見も「描写」というものに批判的に言及しながら、やはりそれを神聖視しすぎているきらいがあります。

描写という言葉をマジックワードにして権威を与えると、小説を巡る議論も抽象的になりすぎ空転してしまうのではないか。
また、「描写」にこだわったあまり、とりわけ純文学において作者の自己満足すれすれの「立派な描写」があふれることになったのではないかと僕は考えています。
たとえば志賀直哉の「暗夜行路」にしても三島由紀夫の「豊饒の海」でもいいのですが、ふとしたことで主人公が自然や街の風景に目を転じ、地の文でその描写がされることがあります。
それらは非常にうまい「風景描写」なのですが、その多くは物語には貢献しません。作品テーマとも絡まないことが多い。ただ主人公がよそ見をして風景を見ただけ。
僕はこれを以前から「よそ見描写」と呼んでいて、長らく続く文学の悪弊だと思っていました。
とりわけ日本の作家は、そういうちょっとした風景の描写を通じて、間接的に主人公の気持ちを表したり、叙情を醸すことをを良しとしてきました。
あきらかに万葉集以降の和歌・俳句などの影響ですね。

しかしそういう「よそ見描写」は物語を進めたりテーマを探求することには(ほぼ)つながらない。
立ち止まって読者に風景を見せて、「ほら感じてよ」とほのめかすだけです。

せめてその風景描写がストーリー上必要なものだったり、劇的な展開の中でそういう描写があればハッとしますが、とくになんでもないだらだらとした展開の中で主人公に「よそ見」をやられても困る、と僕は感じていました。

高見順の「自然描写はかなはん」という言葉も、きっと同じような思いから出てきたのでしょう。
「描写」を神聖視した結果、どんどん「うまい描写」が幅を利かせて、その結果文学がどんどんかったるくなっていった。
(石川忠司氏が「現代小説のレッスン」という本のなかで、現代の作家たちがそういう「かったるさ」にどう向き合っているかを解説しています)

僕は、抽象的で偉そうな「描写」という概念を捨てて、即物的な「説明」の地点にもどれば、ひとつひとつの表現の必要性を作家が冷静にチェックできるのではないか、と考えました。

つまり、「いま書いているこの文章(自然表現など)が、いったい小説にどのような貢献をしているのか、もし読者から質問されたときにはっきり答えられないようであれば、それは書く必要がないものだ」という考え方です。
「うまい風景描写だから価値がある」ではなく、「この風景を説明した文章表現が、小説全体とどのように関わり、機能しているか」が大事だというわけです。

「文章で説明した内容の必然性を、読者に訊かれたら説明できるようでなければならない」

こういう二重の「説明」の意識があれば、よけいなことは書かなくて済むのではないか。(オッカムの剃刀に近い考え)

説明というと、小説業界ではあまりよいものとされていませんが、小説の最大の武器は(少なくとも最大の武器の一つは)「文章であけすけにどこまでも説明できる」ところにあると僕は思います。
映画に代表される映像媒体は、ビジュアルや音で表現するため、すぐに情報が視聴者に伝わりそうに思えますが、じつは作品世界の背景であったり登場人物の関係性などを詳述するのがとても苦手な媒体です。
ナレーションや字幕のような形で説明することもできますが、それにも限界がある。

映画という媒体は立ち止まることを許さない。
時間の流れとともに一方的にどんどん情報が流れていってしまうため、視聴者が容易に情報の確認をすることができないのです。

一方、小説の場合は、地の文で野暮なまでに作品世界を説明したり、人間関係を説明したりすることができる。(上のほうで書いた、「時間の流れを感じさせない説明」がこれです)
映画みたいに一瞬で人物の外見や場所などをビジュアルで伝えることはできなくても、そのぶん時間をかけて地の文で様々な情報を伝えることができる。

たとえばファッション雑誌において、どれだけ人目を引く美しい写真が多く使われようとも、ブランドの背景や商品製造のこだわりを伝えるためにはやはり文章は欠かせません。
雑誌を見た読者にその商品を欲しいと思わせるには――そして小説において読者にドラマ性を感じてもらうには――その手の血の通った情報を適切に伝えることが肝要です。
説明不足のまま物語を進めても、受け手は感情移入ができず、当然ながら感動もできない。

そういう意味での説明の重要性を説いた映画監督に、ヒッチコックがいます。
彼は、トリュフォーと対談した有名な「映画術」という本の中で、サスペンスの重要性と絡めて情報の提示の方法を語っています。
彼の言うサスペンスとは、ミステリでよくある「意外な結末」というおどろき(サプライズ)とは違います。

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定本 映画術 ヒッチコック・トリュフォー

たとえば、映画の冒頭で、反政府組織のテロリストが自分の車に爆弾を仕掛けるとする。テロリストはそれを使って大統領府を爆破するつもりだったが、少し目を離した隙に車泥棒にその車を盗まれてしまう。車泥棒は爆弾のことなどつゆ知らず、上機嫌でその車を運転して街中を進み、やがて子供たちのいる保育園の前で停車し――

上記のストーリーは適当に自分が考えたものですが、ヒッチコックのいうサスペンスとはこのようなものです。
作中の人物たちは、それぞれ自分たちの知り得る情報しか持っていないが、それをスクリーン越しに見ている観客たちは、危険な状況がすべてわかっている。
観客たちは状況がわかっているからこそ、「その車には爆弾が載ってるんだから早くみんな逃げろ!」とはらはらしながら物語を追うわけです。
「なるべく映画の中の状況を観客に伝えるべきだ」とヒッチコックは言います。

ヒッチコックのすばらしいところは、役者の台詞で説明することだけでなく、カメラワークやカット割りで観客に大切な情報を説明できているところです。
たとえば、のちのち重要になってくるナイフなどの小道具があれば、カメラがそこにズームしてあけすけに「これが重要アイテムだよ」と伝える。
黒澤明などは「カメラが芝居するな!」と言ってそのような説明的なカットを嫌うのですが、その黒澤もたとえば「用心棒」が成功したのは物語冒頭の宿場町で、会話劇やカメラワークで堂々と状況を説明したからだと思う。
(だから評論家によっては「用心棒」を説明的だとしてあまり高く評価しない人もいる)

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娯楽の基本は説明である、と僕は思う。
ガンダムの脚本などで有名な星山博之氏の「星山博之のアニメシナリオ教室」でも、「説明を怖れるな」という趣旨のことが力強く書かれてあり、我が意を得たりと思いました。
(星山氏は「説明台詞にしろ」と言っているわけではなく、構成を含めた総合的な説明の重要性を言っています。余談ですが、シナリオ関係の本はどうしても物語全体の構造論に話が向きがちですが、星山氏は「脚本会議で駄目だしが出たら、ドラスティックに改稿するのではなく、ちまちまと細かいところをいじったほうが成功しやすい」という趣旨の実践的なアドバイスなどもされててとても勉強になります)

小説の場合、「描写」というマジックワードのほかにも「語り」や「文体」というものがあるのですが、これらも「説明」という言葉に置き換えたほうが理解しやすくなるのではないかと思う。
とくに「文体」というものにこだわると、どんどん文章によけいな情報が付着してしまい、「思い入れたっぷりの文体はかなはん」となりかねない。
これもいっそのこと、「文体など意識せず、説明のためのテクニックだけを考えて書く」ようにしたほうが良いのではないか。
そのテクニックによって、いったいなにを説明するのか?
そこを常に考えて書いていけば、かったるい表現にはならず、必要なものだけを正確に伝え、「おもしろい」ものが書けるのではないか?

――と、このように僕は考えていたのですが、最近は少し違う考えも(説明を重んずる部分は変わらないものの)持つようになった。
ここでようやく、前回の記事で取りあげた「表現の強さ」の問題とつながってくるわけです。

次回に続きます。

『表現の強さとはなにか?①』完全燃焼の文体

開高健が「完全燃焼の文体」という短い文章論を書いているのですが(全集13巻に収録されています)、そのなかでヘイエルダールの「コン・ティキ号探検記」とキャパの「ちょっとピンぼけ」を取りあげて、どちらの文章もすごく良いと褒めています。

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日本人の遊び場 (開高健全集)

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コン・ティキ号探検記 (河出文庫)

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ちょっとピンぼけ (文春文庫)


「コン・ティキ号」も「ピンぼけ」も、文章を変に溜めたり捻ったりしないで、一文一文がすっと素直に消化されていき、読んでいく快楽を与えるばかりで、良い意味でなにも後に残らない――開高はおおむねこのような意味合いのことを書いていました。(いま手元に本がないので正確な引用ではないのですが)

また、自分もこのように書きたいが、なかなかこういう文章はものすることができない、というようなことも書いていたように思います。

実際にその二冊を読んでみて、開高の主張がよく理解できました。
どちらも小説ではなく、体験記です。
書き手が体験したことを、リアリズムに即して読者に伝えようとしている。
書き手は構成などには頭を使うでしょうが、部分部分の内容について変に迷うことは少ない。なにしろ自分が見て聞いて体験したことなのですから、「読者がこれを読んでどう思うかはわからないけど、でも実際にこうだったんだよ」という開き直りに近い気持ちでそれを書くことができる

ことさらレトリックを使う必要なんてないんですね。小説と違って文体とか独自性とか、そんなことを考えなくていい。
だからインパクトのある内容が、スッスッと読者の中に入っていき、余計な煤や澱など残さずに完全燃焼していく。
よい意味で即物的で気持ちいいのです。
開高もベトナム戦争を取材したり、釣り体験をルポ風に書いたりしていますから、この手の文章のすばらしさがよくわかったのでしょう。

前の記事で取りあげた、鶴颯人さんの「ロヒンギャヘの道」もまさに文章がたゆまず完全燃焼している。
書き手の確信がそこにある。書く動機が明瞭なのが、文章の強さを支えている。

純文学であれルポであれライトノベルであれ、あるいは音楽や絵画や陶芸などであれ、すばらしい作品は単に「おもしろい」だけでなく「強さ」が感じられる。
表現には「強さ」としか言えないものがきっとある、といまの僕は感じています。

自分は以前、物書きであるからには、ちゃんと言葉で定義できない概念を安易に掲げるのには反対で、人によって都合よく定義の変わるマジックワードのせいで創作の現場が混乱していると考えていた。
しかしいまは、この「強さ」というものを娯楽作品においてどう出せるかというところに関心が向かっています。

次回の記事は、そこら辺をもう少し掘り下げてみたいと思います。
書いてる人

藍上 陸(Ranjo Riku)

藍上 陸(Ranjo Riku)
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1985年生まれ。小説家。

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