「Fate/Grand Order -絶対魔獣戦線バビロニア-」10話の石井俊匡演出②

前回に続いて、「Fate/Grand Order -絶対魔獣戦線バビロニア-」10話(こんにちは、太陽の女神)の石井俊匡さんの演出について自分なりに思ったことを書いてみたいと思います。

今回は編集(カッティング)の妙について。
といっても、レイアウトと違ってカッティングは静止画の引用だけだとカットのタイミングなどがうまく伝えられません。
動画形式で当該個所を引用する手もありますが、著作権的にOKなのか? という不安が。
画像を引用しての批評なら、過去の判例から認められていますが(脱ゴーマニズム宣言事件など)、サイト上に動画を載せて批評することについては果たして判例があるのかどうかわかりません。

たぶん必然性があれば動画引用もOKだと思うのですが、とりあえず今回も静止画の引用でなんとかやってみます。
というかそもそも自分、動画の編集とかほとんどできないから引用しようにもできないし。
そんな自分がカッティングについて語るなどおこがましいですが、幸いなことに『映画の瞬き』というよすがとなる好著があります。

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※自分が読んだのは2008年に出た旧版なので、下記の引用文もそちらからになります。

著者のウォルター・マーチは、『カンバセーション…盗聴…』や『地獄の黙示録』などのフランシス・フォード・コッポラ監督の作品や、ほかにもジェリー・ザッカー監督の『ゴースト/ニューヨークの幻』など、数多くの作品の編集を手がけている編集技師です。

この本のなかでマーチは、人間のまばたきと映像編集との関係について考察しています。

 どうやら瞬きの頻度は、周囲の環境条件よりは、むしろ頭の中における感情や思考の頻度に大きく影響を受けているようだ。(ヒューストンの例のように)顔の方向を変えなくても、瞬きというものは、頭の中で展開されている思考の分離作業を助長するもの、または、無意識のうちに脳が行っている分離作業にともなって勝手に表出するもの、のどちらかではないだろうか。

(※中略)

 もしもその会話が映画の場面だったとしたら、話し相手が瞬きする瞬間は、おそらくカット・ポイントと同じ瞬間になるだろう。その前でもなければ後でもないのだ。
 つまり、人は日常生活の中で、ある考えを心に抱いたり、思考を連ねて連想したりするけれど、新たな思考とそれまでの思考を分離して区別するために、瞬きをしているのである。同じように、映画の中では、ひとつのショットがひとつの思考に相当し、それを分離させて区別させるためのカットが「瞬き」に相当する。カットしようと決めたその瞬間、その編集者は「この思考についてはここで終わりにして、新しい思考をはじめよう」と言っているようなものだ。ここで強調しておきたいことは、カットそのものが「瞬きの瞬間」を作り出しているわけではないということだ。それはシッポが犬を振るわけがないのと同じことである。

映画の瞬き―映像編集という仕事― ウォルター・マーチ(著)/吉田俊太郎(訳)p83~85



このように、マーチは人間のまばたきというものを、「思考や感情を分離するもの」としてとらえ、映画におけるカット・ポイント(編集点)をまばたきのタイミングを想定しながら決めるのだと述べます。
マーチはこの考えを敷衍してこう続けます。

 自分が心地よく瞬きできると感じた個所こそが、カットされるべきだと感じる個所そのものなのである。
 そうすれば、以下の三つの問題も一気に解決する。

①カット・ポイントになり得る数々の個所を見極める(瞬きに注目するとこの作業は容易になる)
②それぞれのカット・ポイントが、観客にどのような効果をもたらせるのかを見極める。
③どのような効果をあたえることがその作品に適しているかによって選択する。
 
 思考の流れ(つまりカットのリズムや頻度)は、その時点で観客が目の当たりにしているものとピッタリ合っていなければならないと私は信じている。「現実の世界」における人間の瞬きの平均回数は、一分につき四回から四〇回とバラつきがある。たとえば口論中の場合だと、一分の間に頭の中には対立する様々な思考が巡るため、瞬きの数は多くなる……ということはつまり、映画中の口論シーンにおける一分間におけるカット数も多くなるべきだ。(注20)実際の話、統計的に見ても、この二つ(現実の瞬きと映画のカット)を比較すると非常に似通っていることが分かる。演出によって多少の違いはあるものの、平均的なアクション・シーンのカット数は一分間二五カット程度なのに対して、通常の会話シーンでは一分間に六カット以下であっても「普通」に(アメリカ映画の場合)感じるものだ。
 いつでも瞬きとピッタリと符号しているべき、おそらくは、ほんの少しだけ先行しているべきではないだろうか。もちろん、あらゆるカットごとに観客が瞬きをしなければダメだと言っているのではない。瞬きするであろうと思われるポイントをカット・ポイントにしなければいけないということだ。ある意味、カットすることで、つまり唐突に視界を変えてしまうことで、編集者が観客に代わって瞬きしてあげているという言い方もできる。ヒューストンの言葉を借りれば、二つのコンセプトを即時的に並列させることで、日常では瞬きすることで行われている作業を代行しているということだ。
 編集者の仕事は、観客の思考プロセスを、予想しながらコントロールすることだ。観客に「乞われる」直前に、彼らの欲している、必要としているものを提示すること、つまり意外性と自明性を同時に兼ね備えていることだ。そのタイミングが遅すぎたり早すぎたりすると問題が生じてくるが、ピッタリ合うか、またはほんの少しだけ先行していると、観客としては、その後で描かれる出来事を、とても自然に、しかもエキサイティングなものとして受け取ることができるのである。

注20
こうすることで観客はその口論に感情的に引き込まれてくれるだろう。反対に、もっと距離をおいて欲しい(観客にその口論をひとつの現象として客観視して欲しい)なら、あえてカット数をずっと少なくするという手法が使えるわけである。

映画の瞬き―映像編集という仕事― ウォルター・マーチ(著)/吉田俊太郎(訳) p90~92



「(カット・ポイントは)いつでも瞬きとピッタリと符号しているべき、おそらくは、ほんの少しだけ先行しているべきではないだろうか。」
「カットすることで、つまり唐突に視界を変えてしまうことで、編集者が観客に代わって瞬きしてあげているという言い方もできる。」

この考え方はとても重要です。
映像というメディアは音楽と同じように時間芸術で、読書とは違い、観客の都合などおかまいなしに一方的に進んでいくものです。
音楽であればその音の連なりの美しさに身を任せればよいのですが、映像作品の場合は視聴者がそれを解釈しながら見ていく必要があります。
視聴者がまばたきをするであろうポイントよりカット・ポイントを遅らせると、映像が間延びした印象となってしまうでしょう。
これは全体のテンポの緩みにつながります。

さて、上記引用文の最後、「注20」には、「もっと距離をおいて欲しい(観客にその口論をひとつの現象として客観視して欲しい)なら、あえてカット数をずっと少なくするという手法」という言葉があります。

それを踏まえて、バビロニア10話の冒頭のカットを見てみましょう。

バビロニア1

前回の記事で書いたように、上記のレイアウトで、左端に立つ女神イシュタルと右端の玉座にいるギルガメッシュの丁々発止が繰り広げられます。
ざっと数えて45秒ほどなので、アニメのカットとしてはかなり長いです。
しかしイシュタルとギルガメッシュの言葉の応酬のなかで、途中一瞬だけほかのカットが差し込まれます。

①イシュタルの顔アップ
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②主人公の藤丸立香の顔アップ
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③イシュタルの顔アップその二
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④祭祀長シドゥリの顔アップ
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どのカットも1秒ほどの短いものです。
どれも顔のアップになっているのは、この短い時間でカット内容をちゃんと視聴者に伝えるためには顔アップが一番適しているのと、「ロングショット→顔アップ」という極端な距離の縮め方で映像にメリハリをつけるためでしょう。

前回の記事で書きましたが、今回の話数でロングショットが多いのは、コミカルなシーンを客観的に提示するためではないか、と僕は考えています。
ロングの絵にしたほうが、滑稽なやりとりを視聴者に客観的に突き放して見てもらえるため、笑いが起きやすい。
それに、キャラクターの全身を使ったアクションとリアクションの両方を、カットを切り替えずいちどきに見せられるため、かけあいのリズムを壊さない。

しかし、さすがにずっと引きの絵のままだと映像的にだれてしまうので、一瞬でもいいからカットの切り替えが必要です。
そこで上記の引用画像のようなキャラの顔アップが差し込まれたと推測するのですが、問題はそのカットをどのタイミングで挿入するか、です。

これはイシュタルとギルガメッシュの台詞の関係もあるので、実際に音つきの映像を観て頂くのが一番なのですが――最初に観たとき、自分は「あえてカットを挟むタイミングをずらしているな」と感じました。

引用画像①のイシュタルの顔は、タイミング的にそれほど違和感はありません。↓

ギルガメッシュ「そして恥知らずにも出戻ってきた、(カット切り替え)そこの女神!(カット戻る)」


しかし、そのあとの②のタイミングは、ちょっとずれている。↓

イシュタル「だぁれがあんたの軍門に降ったかって言うの! 私はビジネスパートナーとして、そこのマスターと契約したのよ! 見てなさい、こいつがすっごいマスターになる(カット切り替え)まで(カット戻る)死のうが爆散しようが私が生き返らせるから!」

イシュタルの台詞の中途で主人公の顔アップに切り替わり、すぐに元のロングのカットに戻ります。
おそらく『映像の瞬き』的には、「私はビジネスパートナーとして、そこのマスターと契約したのよ!」のあとに主人公の顔アップを挟むのが切りが良く自然だろうと思います。


また、③についても、微妙にタイミングをずらしているように感じられる。↓

イシュタル「そしてあんたはこう言うのよ! おお、イシュタルは勝利の女神であったか! よし!  (カット切り替え)我死のう!(カット戻る) ってね!」

②と較べればまだ自然ですが、それでも「我死のう!」のところだけ急に顔アップになり、「ってね!」のところではすでに元のカットに戻っているのはかなり忙しい印象です。
もっと穏当にするなら、「おお、イシュタルは勝利の女神であったか!」のところでカットを切り替え、イシュタルの顔アップで「よし! 我死のう! ってね!」と言わせるやりかたがありそうです。


④についても、シドゥリの顔アップを挟むタイミングはかなり変則的です。↓

シドゥリ「お二人ともどうかそこまでに。なんにせよ土地神が実際に舞い降りるなどこの上ない名誉なこと。(カット切り替え)牧場主(カット戻る)からの被害報告などは水に流しましょう」

それまで黙っていたキャラが急に口を挟むのだから、普通ならば早い段階でその人の顔を映しそうなものです。
「お二人ともどうかそこまでに。」のあとに顔アップを入れるのが一番自然だろうと思います(台詞上もそこで一度呼吸を置いています)。
しかしここではかなり遅れたタイミングでカットが切り替わり、しかも台詞の途中の「牧場主」と言ったあとに元のロングショットに戻っているため、かなり不規則な印象を受けます。

これらは狙ってカット・ポイントをずらしているように見えます。
まさに、『映像の瞬き』にあった、「もっと距離をおいて欲しい(観客にその口論をひとつの現象として客観視して欲しい)なら、あえてカット数をずっと少なくするという手法」に通ずる考え方だと思います。

このカット数を少なくする、というのは、物理的に少なくするというだけではなく、カット・ポイントを瞬きが起きそうな瞬間より遅らせることでもあると思います。
実際に演出家の石井さん(と編集の三嶋章紀さん)がどのような狙いでこうしたかは他人の僕にはわかりませんが、おそらくこの「タイミングがズレた感じ」を狙ってやることで、イシュタルとギルガメッシュの丁々発止を視聴者に突き放して観てもらおうとしたのではないでしょうか。


そうやって「タイミングのズレ」を演出する一方、この話数では、コミカルなシーンにおいて編集による「省略」でテンポの良さを演出しているのが目立ちました。

ジャガーマンが、森の仲間たち(雑魚キャラ)を主人公たちにけしかけるシーン。

ジャガーマンが、雑魚キャラたちを呼ぶ。↓
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ジャガーマンの台詞「ボーイズ&ガールズ! 今夜は寝かさなーい、ぜぇ!」の「ぜぇ!」の瞬間に↓カットへ。
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ジャガーマンが去り、雑魚キャラたちが棍棒を振り上げて一斉に「ウォオオオ!」と雄叫び。↓
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雑魚キャラの雄叫びを唐突に切り、場面転換して王城のギルガメッシュの足の貧乏揺すりのカットへ。↓
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ギルガメッシュにケツァルコアトルの件を報告する主人公たち。しかし雑魚キャラとの戦闘にはいっさい触れず。↓
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アニメに限らず、最近の映像作品ではよくテンポ感が取り沙汰されます。
「あの作品はテンポがいい」とか「あの場面はテンポが悪い」といった声をネットの感想でよく見かけます。
最近知ったのですが、円盤などで自宅で映画を観る人のなかには、動画再生ソフトの機能を使って1.2倍速以上のスピードで再生して観る人もけっこういるのだそうです。
そのほうが時間節約にもなるし、テンポ的にもだれなくてちょうどいいのだとか。
パソコンやスマホでYouTubeの動画などを次々にザッピングしていく時代なので、映像に対する感度や接し方が変わってきているのかもしれません。

じつは自分も、再生スピードこそいじろうとは思いませんが、録画したり円盤を買ったりしてアニメや映画を観るとき、しょっちゅう停止ボタンを押して休憩しながら観るくせがついてしまっています。
一本の映画を見終わるのに一週間以上かかったりします。
こんな記事をブログに載せておいて言うのもなんですが、自分は映像で物語を観ることがそもそもあまり得意ではありません。
自分のペースで読み進めていける小説や漫画のほうがずっと好きです。
こらえ性がなく坐骨神経痛まであるので、三十分のテレビアニメですらきつく、ましてや映画館に二時間すわって映画を観るのはかなりの苦痛を伴います。

また、技術の発達によって映像がどんどん綺麗になり、そのせいでどんな映像にも観客はすぐに慣れてしまい、感動がなくなってしまう――そういうジレンマが映像にはある気がします。
刺激が強いからこそ、その刺激に慣れるのも早く、そうなってしまえば変化のない退屈な代物となる。
「バビロニア」も、たとえば8話の戦闘シーンはとても作画枚数を使って派手に作られているのですが、僕は途中から慣れてしまって感動が薄らいでいることに気づき、自己嫌悪に陥ります。

映像の綺麗さ、派手さだけではなく、カット単位でもシーン・シークエンス単位でも視聴者の予想を裏切るアイデアが必要で、そのためにはモンタージュを含めた編集の妙が求められるのだと思います。

映像におけるテンポの良さとは、あるいは「本来あるべき時間や工程を飛ばし、そのあいだに起きたことを視聴者の想像力で埋めさせること」なのかもしれません。

逆説的ですが、視聴者の脳内で「後戻り」をうまくしてもらったときに、テンポの良い映像ができあがるのです。
なにしろ、人はこれから起きるであろうことをじっと待つより、すぎさった過去に思いを馳せることのほうがずっと速くできるのですから。

上記のジャガーマンの件でも、雑魚キャラたちが棍棒を振り上げて雄叫びを上げた瞬間、視聴者はこれから主人公たちと戦闘が始まると身構えます。
しかし次の瞬間カットが代わり、王城内へと場面が飛ぶ。
その際、ギルガメッシュの貧乏揺すりをアップにしたカットを挟むのは、場面転換を伝えるためにはショットサイズをがらりと変更したほうが誤解が起きず、効果的だからです。
そのあと、ギルガメッシュに経緯を説明する主人公たちのカットはロングの俯瞰になりますが、これもジャガーマンたちとの横構図のカットと明確にアングルを変えたことで場面転換を示しています。

また、この最後のカットで、視聴者は雑魚キャラとの戦闘シーンがカットされたことに気づき、きっと笑います。(僕は大笑いしました)
もしここで、すぐにキャラの顔アップのカットにしてしまうと、映像的な新しい意味が発生してしまい、情報量が増えて笑いの余韻が消えてしまう。
あらゆるアングルのなかで一番客観的な俯瞰カット(しかも主人公たちは背中)にして、ほとんど止めの絵で会話させるからこそ視聴者は安心して笑えるのです。
そしてこのカットによって、先ほどのジャガーマンたちとのあいだに起きたであろう戦闘を視聴者は遡って想像し、そこで起きたことを高速で脳内補完することによって、テンポが良いと感じるようになります。

最後の止めの俯瞰カットだけ見れば手抜きと思う人もいるかもしれませんが、映像演出というものは前後のつながりが大切だということをあらためて考えさせられます。


同じく、編集による省略でテンポの良さを演出しているシーン↓。

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ジャガーマンに向かってイシュタルが攻撃した際、実際に攻撃が当たってジャガーマンが倒れるところを映さず、いきなりジャガーマンの顔アップのカットに飛びます。
カットが切り替わると、ジャガーマンが倒れて強がっている絵になりますが、一見しただけでは普通に立っているようにも見えます。
そして最後のロングのカットで、ジャガーマンの姿が画面から消えて武器のみが屹立して映っていることから、ようやくジャガーマンがすでに倒れているということに視聴者は気づきます。

実際に映像を観て頂くと、物理的なスピードの速さだけではなく、視聴者が「後戻り」して意味を理解することでテンポの良さにつながっていることがわかります。
この「省略された時間」をうまく視聴者に埋めてもらえるようコントロールしないと、単にカットがつながっていない失敗演出となってしまいます。

この「視聴者に後戻りして理解させることでテンポの良さが作られる」というのは、視聴者の能動的な意識を利用するという意味で、前回の記事の最後に書いた「なにかが起きそうな予感」を演出することと本質的に同じです。


小説や漫画と違い、一方的に流れていく映像だからこそ、いかに視聴者に考えて作品世界に参加してもらうかが重要なのだと思います。
アニメの場合は絵コンテという作業が必ず入るため、そこで前もって絵的にそういう計算ができます。
実写で絵コンテを描かない現場の場合、「なにかが起きそうな予感」であったり省略といった演出テクニックを、どの段階で誰が考えているかが気になります。

ハリウッドなどでは専門のストーリーボード(絵コンテ)担当の人を雇うので、プリプロダクションの段階で監督やカメラマンなどを交えてプランを立てられますし、ポストプロダクションでも編集技師は絵コンテも参照しながら編集をおこなっていきます。
近ごろはCGのパートが増えたため、あらかじめ映像を設計するストーリーボードの重要性はますます高まっています。

アルフレッド・ヒッチコックやスティーヴン・スピルバーグやマーティン・スコセッシの撮った昔の映画が、何十年経ってもいまだに新たなファンを獲得し、若いクリエーターに影響を与え続けるのは、ストーリーボードを用意することを厭わず、映画的なテクニックを知悉して縦横に用いているからでしょう。
彼らの良き後継者は、日本においては実写ではなくアニメの演出家に多くいるのではないでしょうか。

小説においても、そういった演出に自覚的でなければならないと僕は思います。
それを考える上で、今回続けて取り上げた「レイアウト」や「カッティング」という映像の概念を研究することは意味があることだと思います。

「Fate/Grand Order -絶対魔獣戦線バビロニア-」10話の石井俊匡演出①

前回の記事の最後で予告したように、「Fate/Grand Order -絶対魔獣戦線バビロニア-」10話の「こんにちは、太陽の女神」の石井俊匡さんの演出について書きます。

石井さんについては過去に幾度も取り上げました。(最初の記事はこちら
ずっと石井さんを追いかけて我ながらストーカーみたいでキモいですが、演出の勉強をするのは小説を書く勉強にもなっています。
今回は「レイアウト編」と「カッティング編」と記事を二つにわけまして、今回はレイアウトについて思ったことを書いてみます。
例によって自分は映像の素人にすぎないので、まちがったこと書いてたらごめんなさい。

石井さんといえば、人物を横にならべた構図で、人物間の手前や奥に構造物を置くことで、立場の違いや心の距離感を表す演出を得意とされています。
今回もアバンで早速ありました。

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画面の左端に、主人公に宝石で買収されて仲間になった黒髪ツインテのイシュタルが立っています。
一目瞭然、画面手前に置かれた大きな柱によって、イシュタルだけハブられています。
この出だしのアバンはコミカルな雰囲気で、右端の階上の玉座にいるギルガメッシュが左端のイシュタルを見下し、二人で丁々発止のやりとりをします。

上記のレイアウトのまま、けっこう長く二人が言い合います。
カメラワークもなく、左端にハブられているイシュタルがしゃべりながらその場でわちゃわちゃと手足を動かすほかに大きな変化はありません。
途中、イシュタルや主人公などの顔アップのカットが入りますが、ほんの一瞬だけ差し込まれるだけですぐにまたこのレイアウトにもどります。

この話数では全体的にカメラは引き気味で、アニメにしては長く回しているカットがよく目につきます。
なぜそうしているかというと、おそらく今回はコメディ色の強い話数だからだろうと思います。
これぐらい思いきりカメラを引くことで、キャラのコミカルな動きを全身で表すことができますし、ドタバタするキャラクターを突き放して客観的に提示することができます。

笑いの質として、「観客の意識が笑いの場のなかに入っていったほうがおもしろいタイプ」のものと、「観客が客観的に対象を突き放して見たほうがおもしろいタイプ」のものがあると思います。
今回の話数ではとくに、ジャガーマンという世界観クラッシャーな珍獣が仲間になりますので、そのドタバタっぷりにまともに演出が付き合ってしまうとアイタタな感じが強くなりすぎ、観客が白けてしまいます。

それを防ぐために、ロングショットを多用して対象を客観的に見せていると思うのですが、その際の工夫として、レイアウトをあえて平面的にペラくしているようにも感じられます。

もう一度最初の引用画像を見て頂きたいのですが、直線の多いひらけた空間なのにどこにも消失点を設定してないことがわかります。

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手前にある、不自然なまでに大きく映る柱のせいで、かえって絵がフラットに感じられます。
よく見ると、左端にいるイシュタルは、画面中央にいるほかのキャラたちより、ちょっと奥の位置に立っていることがわかります。
人物サイズを較べてみてやっと気づくぐらい、奥行きがあいまいな絵なんですね。
横の構図だとそもそもこうなりやすいんですが、これはコメディのためにあえて狙って奥行きをなくし、平面的な絵面を企図しているような気もします。

石井さんのパースをつけたレイアウトのうまさは、コンテ演出を手がけた「僕だけがいない街」2話の教室のシーンを見れば瞭然です。↓

僕だけがいない街 2話7
(詳しくはこの記事

今回のバビロニア10話でも、イシュタルとギルガメッシュの丁々発止が終わり、ギルガメッシュが少しまじめなモードになると、今度はちゃんとパースのついたレイアウトとなります。↓

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↑横の構図から縦の構図に変わり、床の絨毯が奥に向かって走ることによって遠近感が強調されています。
これにより、さっきまでのコミカルな雰囲気から変化したことを視覚的にも伝えているわけですね。

↓パースはついていませんが、まじめな会話をしているときの「縦の構図」のわかりやすい例です。
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実写・アニメ問わず、縦の構図を撮るときの常套手段である、望遠レンズを使った(ように見せる)カットですね。
望遠レンズの圧縮効果により、手前の人物と奥の人物のサイズがあまり変わらなくなり、奥にある階段が急角度で立ち上がって見えます。
これをディープフォーカスにしてしまうと単なる作画ミスだと思われてしまいますが、ちゃんと望遠レンズの被写界深度を表すためにフォーカスの合っていない部分を撮影処理でぼけさせてますね。

この話数では、おおむね「コミカルなシーンではパースのついていない横の構図」・「まじめな話は縦の構図」という使いわけがなされているように思います。
以下、コミカルなシーンのときの横構図の例を時系列関係なしにいくつか。

↓地面に敷かれた煉瓦がパース線となっていますが、ほとんどわからず、全体の印象はぺらっとしています。
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また、コミカルというわけではありませんが、凶暴性を剥きだしにしたケツァルコアトルが急に緊張感を解いて気の抜けた感じになる場面も、ロングの横構図になります。↓

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ただ、コメディシーンはすべて横の構図というわけではなく、たとえば下の引用画像は縦の構図となっています。

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パースが発生して遠近感がついたため、奥にいる頭から血を噴いたジャガーマンを、主人公たちが「なんだこいつ……」とちょっと突き放して見ている感じがよく伝わります。
遠近感はついてますが、中央の消失点のところにジャガーマンを置いたベタすぎる一点透視図法なため、凝った感じはなく、かえってチープでコミカルな感じになっています。

構図の縦横を問わず、ロングショットにしているのは、ギャグの担い手とそれに反応する受け手の両者を一つのカットに入れ込むため、という理由もありそうです。
コメディシーンでカットをいちいち切り替えると、うまくやらないとテンポ感が悪くなったり、笑いの「間」を潰してしまうことがあります。
テレビの漫才で、いちいちボケとツッコミをべつべつのカットで示したら、きっとテンポが悪くなってしまって笑えないでしょう。
一つのカットのなかに両者を入れ込むと、アクションとリアクションがシームレスに見せられます。

一方で、カットを切り替えたときのほうがテンポ良くおもしろくなることもあり、次回の「カッティング編」ではそれを考察してみる予定です。

そのほかにも、おもしろかったレイアウトをいくつか。

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↑腰を抜かした兵士をマシュがかばう際、マシュの盾をこのように使ってみせるのはさすが。
また、このアングルを取ることで、このあと右側から駈けつけてくるロリっ子アナや主人公を、自然にフレームインさせられます。↓

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↓また、最初に引用した「柱」のように、マシュの盾を使ってイシュタルだけを疎外するやりかたもあります。
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↓マシュの視線が主人公に注がれているのを強調するため、盾で画面下を隠すやりかた。
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この作品の主人公は一般人なため、みずから敵に向かっていくわけではなく、おもにマシュたちサーバントをバックアップする役目なのでどうしても活躍が地味になりがちです。
ネットでは「主人公はただ立って見てるだけ」みたいなひどい言われようをしているみたいですが、そういう印象を緩和させるため、こうして動揺するマシュが主人公を頼っているように視線を強調したのではないでしょうか。(台詞とか状況自体はシナリオで指定されてたと思いますが)
この際、主人公はマシュを見返すのではなく、敵のいるほうをじっと見つめさせることが大事です。

マシュの視線を使って主人公の存在感をだすやりかたは、0話のコンテ演出を担当した高雄統子さんもされていました。
盾を正面に構えるマシュの手に、横からそっと主人公が手を重ね、マシュがはっとした顔でとなりに立つ主人公を見上げるカットがもう最高なのですが……高雄さんの視線を使った演出は、いつかほかの作品と合わせてまとめてみたいので、詳しくはそのときに。

マシュの盾を「仕切り線」のように使うやりかたはとてもうまいのですが、しかしなんでもかんでもそこに意味を読みとろうとすると誤読するおそれがあります。
たとえば、以下のカット。
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マシュの盾によって左端のアナだけが仲間たちから隔離されているようにも見えます。
しかも、アナと同じ側に敵のケツァルコアトルがいるので、FGOをよく知らない自分などは一瞬、「まさかアナとケツァルコアトルはなにか関係が?」と思ったりもしましたが、これはさすがに深読みのしすぎです。
ケツァルコアトルを含めた状況を示すためにはカメラ位置を低くしてあおる構図しかなく、全員を入れ込むためには、背の低いアナの立ち位置はここしかなかったということなのでしょう。
まさかこのカットだけマシュの盾を消すわけにはいきませんし。
全員の視線が頭上のケツァルコアトルに向かっているので、へんに深読みしない限り違和感はありません。

次に取り上げるのは、台詞と構図を組み合わせたカット。
バビロニア33
「逆説的に、善なる者では敵わないの」

↑イシュタルの「逆説的に」という台詞が始まるのと同時に、この水の表面に映ったさかさまのイシュタルの顔のカットに切り替わります。
台詞の「逆」という部分にかけたお洒落なカット。

↓もう一つ、この話数のラストカットも。
バビロニア31
「ケツァルコアトルと、魂の真っ向勝負だ!」

「真っ向勝負」と言っているのにこれ以外のアングルを取ったら、映像的にべつの意味が発生してしまいます。
ギャグ調になったり、不穏な先行きがにおったり、本心とはべつの台詞に聞こえたり……アングルとショットサイズを変えるだけで、同じ台詞でもまったく違うニュアンスを表現できます。
ここではそういう裏の意図はないので、真正面以外のアングルはありえません。

次に引用するカットは、人物を画面の片側によせて「空き」を作ることによって、そこに人がやってくるのを視聴者に予感させます。
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右側に映っているロマニと、左側からやってくるダ・ヴィンチはたいてい一緒にいます。
なので、ロマニだけ画面片側に寄っていると、空きスペースにダ・ヴィンチが来るのではないかと視聴者に予測させることになり、実際に動きが起きるのに先行して次の展開を視聴者の内部で発生させることができます。

視聴者にみずから次の展開を考えてもらうことが大切で、それにより作品世界に没入してもらえます。
学校で先生から一方的に問題の答えを教えられるより、自習で問題を解いたほうが長く記憶に残るのと一緒ですね。

↓同じようにフレームインするカット。
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バビロニア29
バビロニア30

演劇では、幕が上がったときにすでに役者が所定の位置に立っていることを「板付き」と言いますが、映像作品でもカットの最初から人物がフレームに収まっている板付き芝居だけでは、緩急のない、動きの乏しいものになってしまいます。
フレーム内部で人物が動くより、フレーム外から内へ入り込んでくる動きのほうが劇的で印象強いものになりますし、フレームの外側にも広い世界があることを視聴者に伝えることができます。(フレームアウトも同様)

北野武監督が昔、雑誌のインタビューで(たしか渋谷陽一さんがインタビュアーだった)、『映画作りはお笑いのコントと同じで、人の出ハケを押さえることが重要だ』という趣旨のことをおっしゃっていました。
漫画ではこのフレームインという動きをおもしろく表現するのが難しいため、漫画を読んで育った作り手は、映像を演出するときに出ハケの見せ方やタイミングに苦労します。
どうしても板付きが多くなり、人が新たにやってくる場面ではすぐにその人の顔へカメラを向けてしまう。
舞台を経験したことのある作り手のほうが、人が現れる(もしくは、人が現れる「予感」を発生させる)ことの演出上の可能性を強く実感しているはずです。

この、フレーム内に誰かがやってきそうな予感だったり、なにかが起きそうな予感を視聴者に持ってもらうためには、ただ当該カットだけを作り込めばいいのではなく、前のほうのカットから伏線を張っておく必要があります。
(ロマニとダ・ヴィンチはセットでいるという情報や、小動物のフォウが草葉から表れたといったことを、あらかじめ前のカットまでに示しておく)

この「予感」は「期待」と言い換えてもよく、これをうまくコントロールすることが、映像に限らずエンタメをおもしろくするための極意の一つなのではないか、と僕は最近思っています。

なにかの雑誌で読んだのですが、脳内麻薬のドーパミンがもっとも放出されるときは、幸せなときではなく、これから幸せなことが起きそうだと予感したときなのだそうです。
文化祭当日より、文化祭前夜のほうがテンションが高い、というやつですね。

おそらくこれは生物が進化の過程で獲得した性質で、子孫を残すためには、交尾ができそうな雰囲気を感じたら即座にドーパミンをドバドバだして反応できるようでなければいけません。
また、肉食動物の襲撃から逃れるためには、実際にライオンが飛びだしてきてから反応しても駄目で、草葉がガサッと鳴ったときや、怪しい体臭が鼻についたときに集中力を高める脳内物質を一気に放出する必要があります。

ホラーではこの原理を最大限に利用し、「来るぞ来るぞ」という、いまにも脅威が現れそうな緊張感を演出して観客のドーパミンやアドレナリンを誘発します。

ホラー以外でこの「予感」を書くのが抜群にうまい作家に、村上春樹さんがいます。
それまで普通に暮らしていた主人公の生活が、ある日をさかいに変容してしまう――氏の書く物語の序盤はそういう「なにかが起きそうな予感」に満ちており、これが人気の秘密の一端なのではないかと思います。

次回は、カッティング編です。

きのこ原理主義者が操を捨てるまで

捻挫したカタツムリのような速度で小説を書いています。
いやはや、慣れないジャンルだとプロットすらもうまく立てられないですね。
おおまかに構想を練ったあとはとりあえず書きだして、各部のディテールを濃くしながらなんとかテーマに追いすがっていって、いつか終わってくれることを祈るしかないというか。

さて、またもやアニメの記事です。
2019年8月から放送されている、「Fate/Grand Order -絶対魔獣戦線バビロニア-」のアニメを毎週観ています。

監督は赤井俊文さん。
過去にショートフィルムの「Porter Robinson & Madeon - Shelter」の監督をされていますが、テレビシリーズの監督は今回が初だと思います。
錦織敦史監督の「THE iDOLM@STER」の特別編のコンテ演出や、高雄統子監督の「アイドルマスター シンデレラガールズ」の4話・11話・19話のコンテや演出や作画監督を務められたのが強く印象に残っています。
(デレマスのPR動画回・アスタリスク回・にわかロックの回、と言えばアニメを観ていた人ならすぐにわかるはず)

デレマスで赤井さんが作画監督をされた回は、キャラデザの松尾祐輔さんの絵と較べてキャラの顔が少し幅広でぷにっとしているのが特徴です。とくにみくにゃんの顔が

「アイドルマスター シンデレラガールズ」4話より。絵コンテ/演出/作画監督=赤井俊文
赤井みくにゃん
赤井みくにゃん2


「アイドルマスター シンデレラガールズ」7話より。絵コンテ=高雄統子/演出=原田孝宏/作画監督=嶋田和晃/総作画監督=松尾祐輔
松尾みくにゃん(たぶん総作監の松尾さんが原画に手を入れてる)
松尾みくにゃん


赤井さんの演出は、腕のいいアニメーターらしく要所要所でキャラクターの芝居を細かくして魅せるのがうまい。
堀口悠紀子さんから影響を受けたそうで、たしかに以前の絵柄にそれはうかがえたものの、原画の動かし方や演出の方向性は堀口&山田尚子コンビとはだいぶ違う、赤井さんならではのものです。
(ミリオンライブのことはよく知らないのですが、アニメ化するのなら赤井さんに手がけてもらいたいなぁ。錦織監督や高雄監督とはまた違ったテイストになるはず)

Fateについては、自分は月姫以来の奈須きのこ信者として2004年に初代の「Fate/stay night」が発売されるのをわくわくしながら待ち望んでいた人間なのでもちろん知っているのですが、スマホゲーの「Fate/Grand Order」はプレイしていないのです……なぜならスマホを持っていないから。
いまだに六年以上前に出たガラケーを使い続けているので、プレイできなくて歯がゆい限り……と言いたいのですが、FGOについてはちょっと複雑な想いを抱いています。

奈須信者をこじらせすぎて、「奈須さんが一人で書いたものじゃなきゃ認めないもん!」という気持ちがあるわけですよ。
奈須さんは「Fate/stay night」までは基本的に一人ですべてのシナリオを書かれていたわけですが、ファンディスクの「Fate/hollow ataraxia」からはほかのライターさんも参加されるようになりました。
まぁ、物量からいってノベルゲーを一人で執筆するほうが異常だったわけで、ほかのライターさんを入れるのは至極当然ではありますが、ファンとしてはちょっと微妙な気持ちで「Fate/hollow ataraxia」をプレイしたわけです。

そうしたら、普通におもしろかったわけです。
あれ? ほとんど違和感なく楽しめるぞ? と。

ここで「よかったー!」とはならないのが自分の面倒臭いところで、そうなるとますます奈須さん一人で執筆したものでなきゃ嫌だもんとなってしまったのです。
ほかのクリエーターによって奈須さんの領分が侵されているように感じてしまうというか……実際には奈須さんがディレクターとして深く関わっているので、アニメにおける監督のようなものだと思えばいいのでしょうが、僕のなかの奈須きのこは物書きと共同作業などせず、中二病をくすぐる設定と魅力的なキャラクターをこれでもかと押しだしていって奈須ワールドを構築し、熱を込めすぎて暴走寸前になったところを盟友の武内崇がバランスを取るのがいいのだ、というふうに(勝手に)思っていたのです。

きのこは孤高の作家なんですよっ! 菌糸類にほかの菌を混ぜたらいけません! 宿主である武内さん以外の声なんかに耳を傾けたらダメですからねっ! と、琥珀さんが叱るような口調で思うわけです。

なので、評判のいい虚淵玄さんの「Fate/Zero」も読んでいないし、アニメも観ていない。
「Phantom」や「鬼哭街」が大好きな虚淵ファンでもあるくせに。
こう、なんというか、好きなクリエーターだからこそ交わらないでそれぞれの作品を作っていてもらいたいというか。

なので、奈須さんが一人で書いている「魔法使いの夜」がついに出たときは欣喜雀躍して感涙しながらプレイしたのですが、FGOについてはどうしても手をだす気にはなれず……今回のバビロニアのアニメ化もパスしようかな、と思っていました。
むしろ、いまだに古いガラケーを使い続けているのは、うっかりFGOに手をださないように、という心のストッパーがどこかで働いているためかもしれません。
マシュって子のビジュアルがかわいくて気になるけど、面倒臭い奈須信者として――いや、きのこ原理主義者として固く操を守っていこう! と。

しかし、本放送に先立ってニコニコやAbemaで公開されたバビロニア0話が、あの高雄統子さんがコンテを描き、原田孝宏さんとアイマス以来のゴールデンコンビを組んで演出も手がけられていると知って、我慢できずに観てしまいました。

そしたらもう、クオリティが高いのなんのって。
番外編なため、さすがにストーリーの背景はよくわからなかったものの、ちっちゃいマシュめっちゃかわいいし、高雄さんの演出がとにかくキレキレで最高でした。
マシュのぼんやりした視線とか表情をうまく使って無垢さを演出したり、マシュがロマニと交流して心が色づいていくにつれて徐々に部屋に色つきの小物が増えていく演出とか、さすがの高雄演出でエモすぎます。ちっちゃいマシュめっちゃかわいいし。

赤井監督だし、副監督に黒木美幸さんがいるし(SideM最高でした)、キャラデザが高瀬智章さんだし、色彩設計が中島和子さんだし(動画工房の石黒けいさんと京アニの竹田明代さんと中島さんが僕にとっての色彩設計三大神)、アクションディレクターや作画監督に河野恵美さんや林勇雄さんや岡勇一さんといった神アニメーターが揃ってるし、CloverWorksだからそのうち石井俊匡さんが演出登板しそうだしで、どいつもこいつも強ェやつらばっかでオラわくわくすっぞ! という面子だったので、きのこ原理主義者の操をあっさり捨ててアニメシリーズを観ることにしました。

幸い、FGOの序盤にあたるシナリオが「Fate/Grand Order -First Order-」として難波日登監督によってアニメ化されています。
それでひとまず世界観がどんなものかを知ることができましたので、安心してバビロニアを観ることができました。
もちろん原作をプレイしてから観たほうが設定や背景は理解できるのでしょうが、いまのところこんな自分でもストーリーは追えていると思います。

こりゃそのうちガラケーからスマホに乗り換えるかもしれませんね。

次回、バビロニア10話の石井俊匡さんの演出を取り上げます。

『表現の強さとはなにか?④』娯楽におけるリアリズム(最終回)

過去に三度、『表現の強さとはなにか?』と題してシリーズで記事を書いてきました。(

この最終回では、これまでのことを踏まえて現時点での自分の答えを書いてみたいと思います。

連載二回目の記事で、

「文章で説明した内容の必然性を、読者に訊かれたら説明できるようでなければならない」

こういう二重の「説明」の意識があれば、よけいなことは書かなくて済むのではないか。(オッカムの剃刀に近い考え)


と書きました。
「描写」や「語り」や「文体」といった偉そうなマジックワードに囚われ、自己満足的でかったるい表現に堕ちないためには、「説明」という即物的な概念で作品を作り上げていったほうがよいのではないか。
この説明を重視する考えは、基本的にはいまでも変わっていません。

しかし、この考えはともすれば「説明しやすいものしか書かなくなる」という危険性を孕みます。
説明しやすいものとは、「流れに従順なもの」と言い換えることもできます。

「おもしろい物語」を作る方法はいろいろあるでしょうが、その一つに受け手に劇的なドラマを体験してもらう方法があります。
ドラマとは、受け手に「必然」を感じてもらうことが必要である、と自分は考えます。
「作者のご都合でこういう展開になった」と思われてしまうとよくありません。
「この主人公がこんな目にあったのは運命的な必然なのだ」と受け手に感じてもらい、それをクライマックスでひっくり返し、説得力のあるラストへ持っていく。
ドラマティックな展開とはそういうものだと思う。

富野由悠季監督の「映像の原則 改訂版」の38ページに、「小さな動機(モチーフ)の積み重ねがストーリー」という見出しで、以下のような文があります。

4873767369
映像の原則 改訂版 (キネマ旬報ムック)

 さて、以上をふまえて映像作品における〝物語〟を規定しましょう。
 物語=情の発展性(〝堕落する〟でも〝する〟という発展性がある)です。

(中略)

 つまり、ベッドシーンの後に、赤ちゃんが生まれればいいのです、という言い方もあります。バトルシーンの後に、ヒーローは勝ったのだが家族はいなくなった、というような発展的描写が必要なのです。ラブシーンの後は、ひとり残ったヒロインが、その相手に対して復讐の刃をみがく、というシーンがなければならないというようなことです。
 そのうえで、物語が寓意(普遍的な意味)を持ち、プロットが観客を感動させればいう事なしということになります。


言うなれば、物語の要素を「だからこうなった」という関係でつなげていけば、それがドラマティックに発展していきやすいのだと思います。

これは因果関係の連鎖ですから、大きな流れとなり、「説明」しやすくなります。
同時に落とし穴もあり、「説明しやすいようなモティーフや物語展開、表現しか用いなくなる」というおそれがあります。

読者の立場から、しばしば「この作品、おもしろいはずんだけどいまいち印象が弱いな」と感じることがあります。
その理由はさまざまでしょうが、「物語の流れが良すぎるがために、読者の印象に残りづらくなった」という面もありそうです。

作品の要素をマクロな構造でもミクロな表現でもすべて説明できるようにした結果、作品が小さく狭くなり、受け手が解釈して膨らませる余地を潰してしまうのです。
これは文学の評論でしばしば言われることで、文学賞の選考委員などもよく選評で「作り込みすぎて読者が小説の中で遊ぶ余地がない」だとか「物語というのはそれだけで通俗的なのだから、いっそもっと娯楽に振りきるか、文学にするのなら作り手や語り手に批評的な視座が必要」というような趣旨のことを言ったりします。

僕は昔、純文学の賞の選評を雑誌で読んで、「物語があるだけで通俗って、この選考委員は物語を馬鹿にしてるのだろうか」と眉をひそめたことがありましたが、きっとそうではないでしょう。
物語(ドラマ)というものの性質が、モティーフ同士が因果関係でつながり発展していくことでカタルシスに到達する性質のものであるため、どうしても流れが良くなりすぎて「自動化」が発生してしまうのです。

自動化されたものは説明がしやすく、説明のしやすさは安易さにつながります。

その自動化を防ぐためには、物語とはべつに、「作り手が説明しづらいもの=受け手が理解しづらいもの」を意識的に入れ込んでいく必要があるのではないか。
容易に自動化されない、作り手の確信でもって行われる、物語とはべつの強固な「こだわり」。
それが「強さ」の源になるのではないだろうか。

その「こだわり」は作家によっては文体なのかもしれない。
己の審美眼に根ざした文章を強固に構築することで、物語の自動化に抗う。
純文学に多いのですが、この場合、文章は徹底的に自己中心的でわがままでなければいけない。読者の便宜を考えると容易に物語の自動化に呑み込まれ、単に読みづらく見所のない作品になってしまう。

志賀直哉の「暗夜行路」を評して、「常軌を逸した居丈高さ」と言った論者がいたそうですが、それはきっと主人公の時任謙作の性格だけではなく、作者の志賀直哉の書きっぷりがあまりにもゴーイングマイウェイだからでしょう。
志賀直哉の作品は全般的にストーリーがはっきりしないものが多く、そういう点ではおもしろいとは言い難いのですが、しかし作品から受ける迫力はすごいものがあります。
ATOKと連繋した「大辞林」で志賀直哉の項目を調べると、「強靭 (きようじん)かつ純粋な自我意識と明晰 (めいせき)な文体によって,独創的なリアリズム文学を樹立した。」とあり、なんだか物は言いようだとちょっと笑ってしまいます。

「作り手が説明しづらいもの=受け手が理解しづらいもの」としては、ほかにも「テーマ」が挙げられると思います。
このテーマという概念もマジックワードで、脚本や小説のハウツー本でもよくテーマの重要性が強調されますが、人によってテーマの定義は微妙に異なっています。
「作者のメッセージ」であったり「物語を貫く概念」であったり「作品を一言で表したもの」であったり「設定の要になるもの」であったり……テーマとコンセプトの違いも曖昧だったりします。

よく映画監督がインタビュアーから「この映画のテーマはなんですか?」と訊かれ、多くの場合は明確に答えないではぐらかすのも、「口でテーマを言うのは野暮だから」という理由も無論あるのでしょうが、そもそもインタビュアーの言っているテーマがなにを指しているのかわからないから、というのもありそうな気がします。

「テーマを口で言ってしまったら作品を見る必要がなくなるじゃないか!」という意見のクリエーターもいますし、「テーマなんて簡単に言えるものじゃない。だから長々と作品にして伝えるんだ」という意見の人もいます。
もうテーマという概念がどういうものかわけがわかりません。

なので、いっそのことテーマの普遍的定義はないと開き直ってみたらどうでしょう。
テーマが作品ごとにまちまちであるように、テーマの定義も作者によってまちまちでいい。
そもそも作品からテーマを切りだしてそれだけ人に伝えたところでどれだけの意味があるかわかりませんし。(批評家の人とかは定義がばらばらだと困るだろうけど)

どのような定義であれ、「テーマ」は「ストーリー」という概念とは完全に同一ではない、ということだけは言えそうです。(完全に同一であればそもそもテーマなんていう概念をべつに用意する必要はない)
ならば、それぞれの定義に従ってそれぞれのテーマを強烈に突き詰めていけば、おのずからストーリーの自動化から脱却できるのではないか。

純文学では、物語を縦につなげていく「だからこうなった」式の展開はそこそこに留め、「そしてこうなった」と横につなげていくやりかたが多いように思います。
因果関係に根ざした縦の流れよりも、並列的な横の広がりを作り、そのぶん各ディテールを詰めていくことで安易な「自動化」から逃れようとしているのです。
その横に広げるときに、不可視の「テーマ」が重要になります。

文学の場合、読み終わったあとに読者が「テーマ」を明確に把握できるような作り方はむしろ悪いとされることが多いです。
どうやら安易に一つの解釈にまとめようとさせない「外し」が大切なようで、そこが文学の呼吸でありおもしろさであるようです。
もっとも、そういう外すやりかたも形式的に硬直化すると、自動化した物語の流れと差異がなくなっていってしまいます。

世界設定(俗に言う世界観)にこだわるというやりかたもあります。
押井監督の映画演出に、BGオンリー(背景のみ)のカットをいくつもつなげたり、カット内にキャラはいてもしゃべらせずにただ黙々と歩かせるだけといったものがあります。
この場合、物語はあまり進展せずに停滞し、それによって世界観を視聴者に提示するわけです。
逆に、キャラに意味のないことを饒舌にべらべらとしゃべらせるやりかたもあり、これはあまりにも多くしゃべらせることで会話の意味を無効化し、むしろ台詞外のことに注意を向けさせるという手法で、先に述べた「無言」の演出と本質的に接近します。

映像はビジュアル媒体ですから、そういう風に人物抜きの表現が成立しますし、漫画においてもたとえば三浦建太郎氏や五十嵐大介氏の作品などは画集としても読めるような美しい世界が展開されます。

世界観という包括的な概念に対し、もう少しミクロな視点からの世界へのアプローチとして、「風景描写」というものがあります。
日本の文学は万葉の時代から花鳥風月を歌ってきました。
現在でも文学においては、風景描写のうまい作家が高く評価されます。
一方で、高見順が「描写のうしろに寝てゐられない」で「自然描写はかなはん」といったように、その手の文章は物語を停滞させ、キャラを立てることにもつながりづらいため、敬遠する読者もいます。
僕自身、文学作品における風景描写はあまり好きではありませんでした。(前回述べたように「描写」という偉そうな概念が暴走していると感じていました)

しかし、「表現の強さ」というものに着目したとき、娯楽小説における風景描写というものは、物語の自動化から逃れることに一役買ってくれるのではないかと思うようになりました。
これまで自分が書いてきたライトノベルでも物語展開の必要に応じて自然や街の風景などを書いてきたのですが、これからは物語展開の必要に応じなくても、積極的にそういう表現をとっていいのではないか、と考えています。
テニスの試合中に、コート上空をヘリがただ飛んでいく様を文章で堂々と書いてもいいのです。

また、世界観を構築するために作中の様々な設定に凝るというやりかたもあります。
奈須きのこ氏の作品のような、設定資料を読んでいるだけでも楽しくなってくる壮大な世界の広がりです。
これはSFというジャンルも大変得意とするところです。

以上、「物語の自動化」から逃れるために、さしあたって「文体」・「テーマ」・「世界観(風景描写・設定)」を挙げました。
もちろんほかにもあるかもしれません。

そしてここが重要なのですが、これらを有効に機能させる(物語の自動化の流れから読者をすくい上げる)ためには、「リアリズム」が必要かもしれないということです。

告白すると、自分はこれまでリアリズムという手垢のついた概念や手法を毛嫌いしてきました。
私小説の文学者たちにしばしば見られる自意識――たとえば滝井孝作が「自分の作品は実体験に基づいているからこしらえものではない」と語ったような自負――を素朴すぎるリアリズムと思い、それが文学の権威主義につながるとして嫌悪してきました。

「見て感じたことをありのまま書くのがよいのだ」という態度を、僕は「田舎の旦那芸」と呼んで馬鹿にしていました。
僕自身が田舎者だからよくわかるのですが、無教養な田舎者は抽象的に洗練された表現を理解しないことが多いのです。
装飾品といったら金やダイヤを使ったキンキラキンのいかにも高そうなもの、豪邸といったら土地が広くて大きな庭と屋敷と立派な門が設えてあるもの、良い絵画とは写真のようにリアルなものを評価するのです。

関川夏央氏の「東と西 横光利一の旅愁」に、横光利一にまつわるおもしろいエピソードがあります。
戦前に横光がヨーロッパ旅行へ行くとき、暑い東南アジア経由の船便なため、麻袋からとったような粗い麻のスーツを仕立てました。
服に興味がある人はご存じでしょうか、麻の服は通気性と速乾性がよく、夏場に最適なものです。
しかし綿以上に皺がつきやすく、近年は改善されたもののかつては色染めも難しく、しかも生地に伸縮性や熱可塑性がないため仕立てるのに高度な技術がいるという通好みな服地です。
船の中で知り合ったイギリス人などの西洋人は、横光のスーツを見て「ホームスパン!」と高く評価していたのですが、補給のために立ち寄ったアジアの港にいる途上国の人間は横光の格好を見て彼の懐具合を心配したというのです。

田舎の若旦那が暇を持て余し、いっちょ文化でも身につけてやるかと絵画などを始めると、いかにも西洋画でございといった「リアルな」風景画を描いたりします。
それを近所の年寄りに見せびらかして、その人たちもその人たちで「おう、まるで写真みてえにうまい絵じゃねえか、若旦那やるねえ」とおだてて、若旦那がやに下がっている……。
落語の「寝床」じゃありませんが、僕は素朴なリアリズム信仰をそういう田舎の旦那芸的なものとして見てきました。
極端に嫌っていたある時期などは、落語家が扇子を使ってこれみよがしにリアルに蕎麦をたぐる仕草すら毛嫌いしていたものです。
それはリアルかもしれませんが、リアルという一種の記号です。
共感されやすいリアルな表現をあからさまにすることで、送り手と受け手とのあいだに生じる「馴れ合い」の雰囲気が鼻につくのです。

しかし、娯楽におけるリアリズムは、そういう受け手との微温的な共犯関係を築くことはありません。
むしろ逆で、物語の流れを塞き止め、意味を氾濫させ、読者の解釈を広げる役割を持ちます。
これは読者に集中と緊張を強いるものです。

娯楽小説、ことに二次元のキャラを前提にすることの多いライトノベルの場合、心地良い物語の流れの中に突如として割り込んでくる各種のリアリズム(文体・テーマ・世界観など)は、「物語」という自己完結性をもった要素と時に激しく対立します。

本来一つのまとまりとして受容される作品の内部で、物語とリアリズムが激しく格闘する――書き手にも容易には「説明」できない「事態」が本の中に出来するのです。

それはときに作品バランスを壊し、傷ともなるでしょう。
しかしその傷を怖れ、慣れた医者の手つきで早々に縫合するのではなく(それは政治的な処世術に等しい)、むしろその傷を肯定的にとらえ、これぐらいの傷がついたほうが物語もリアリズムも男振りが上がって結構だ、と猪武者のように開き直る蛮勇が作家には必要なのではないでしょうか。

連載一回目の記事で、開高健の「完全燃焼の文体」という概念を取りあげました。
コン・ティキ号探検記」や「ちょっとピンぼけ」の文章が、どうして上質な蒸留酒のように胃にもたれずに心地良く完全に消化されていくのか。
それは、作者が自身の体験した「現実(リアル)」としっかり向き合っているからだと思います。
もっとも、「リアリズム文学を作ろう」と変に肩に力をこめてしまっては、リアル自体が記号化され、田舎の旦那芸になってしまいかねない。

物を書くという行為はそもそもが不自然なことです。
自分が体験したことを文章だけに落とし込むことが、いかに無茶な行為か。書き手は常に、体験と想像(イメージ)と文章とのあいだの谷底に悩まされます。

読者に受けるものを書こう、という下心は、おそらく娯楽作家だけでなくノンフィクション作家や純文作家にもある。
だから、いたって即物的にリアリズムに基づいて書く、という態度は、それ自体が作品の中で激しい「対立」を生じさせます。それはそのまま作家の葛藤でもあり、世界(作品内世界や現実世界)における矛盾でもあるのです。

その対立を低い次元で調和させようとするのではなく、無理に抽象的な概念を持ちだして止揚するのでもなく、傷口や矛盾のありようをそのままさらけだして読者に突きつける。
読者はそこでたじろぐのです。
これはただごとではない。容易な理解を拒む、端倪すべからざるなにかがあると。

以上のことが、「表現の強さ」の精髄であると自分は考えます。

なお、これは岡本太郎の「対極主義」の考えにとても近いものです。

抽象と具象、男と女、平和と戦争――そういった二項対立を同一のキャンバスに描き、折衷も止揚もさせず、容易に和合することのない二項の対立の裂け目を生々しく見せつける――

対極主義を簡単に述べると以上のようになるでしょうか。(岡本太郎は「主義」という硬直した言葉を嫌い、後年は単に「対極」とだけ言うようになります)
自分は岡本太郎から多大な影響を受けていますが、体系的に岡本の思想を語れるだけの力をまだ持っていませんので、ここでは対極主義の考えから影響を受けたと述べるに留めます。
(なお、岡本の対極主義については、東京国立近代美術館が公開している大谷省吾氏のすぐれた論文(PDF)が参考になります)

予定調和的な物語の流れに逆らう「破調」を意識的に持ち込むには、歴史ある文学のやりかたを参考にするという手がありますが、しかし僕はむしろ文学以外から示唆を受けたほうがいいと思っています。
文学は文学で、(通俗的とされる)物語とどう付き合っていくのかという点について、あまり深い考察がなされていないように思えるのです。
文学においてはどんな物語が可能なのか、許されるのか、その点に言及する文学者は少なくないのですが、文学はもともと「だからこうなった」式のドラマを意識して作らずとも成立する媒体であるため、文芸雑誌を読んでいても納得できる意見にはなかなか出会えません。

なので、娯楽作家にとって参考になるのは、むしろマンガやアニメやゲームなどの他の娯楽ジャンルのすぐれた作り手たちの知見だろうと僕は思います。
かつてマンガやアニメが小説や映画から大きな影響を受けて成長し、ビデオゲームがマンガやアニメから大きな影響を受けて成長していったように、小説という古いジャンルもまた他のジャンルから学んでいくことが必要だと考えています。
娯楽としての小説をこれからも残していきたいのならば、なりふり構っていられません。

さしあたって、マンガやアニメなどの二次元のキャラを使った表現ジャンルが「リアル」とどう向き合い、表現してきたのかをこれから意識的に見ていこうと思っています。

最後になりますが、これまで考察を進める便宜上、「おもしろい」と「強い」をべつのものとして扱ってきましたが、この二つは実際には分離できるものではなく、相補的なものです。
自分が「表現の強さ」に惹かれ、自分でも実践したいと思ったのも、そういう表現がたまらなくおもしろく、昂奮をもよおしたからに他なりません。

『表現の強さとはなにか?③』物語の自動化に背く

前回の続きです。
三回目は、アニメをとりあげて表現の強さを考察してみます。

創作には「おもしろい」だけでなく「強さ」というべきものがあるのではないか――
それを考えるようになったのは、押井守監督が1994年に上梓された【METHODS ~押井守「パトレイバー2」演出ノート】という本と出会ってからでした。
僕が読んだのはたしか2016年の1月だったかと思います。
長らく絶版で手に入らなかったのですが、復刊ドットコムさんが復刊してくれて、ようやく手に入れることができたのでした。

「METHODS」は、映画「機動警察パトレイバー2 the Movie」のレイアウトを多数掲載し、監督みずからその演出意図を一つ一つ解説した本です。

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「METHODS」はいまでも多くのアニメーターや演出家や美術家に読まれ、影響を与えつづけています。
(なお、同様の本に【「イノセンス」METHODS 押井守演出ノート】というのもあり、こちらは映画イノセンスのレイアウトを解説されています。こちらもおすすめです)

クリエーターが自作の分析を披露するこの手の解説本は、名著「石ノ森章太郎のマンガ家入門」の巻末解説で島本和彦氏が喝破しているように、あらかじめ理論があってそれに沿って作品を作ったというより、作者が自作を読み直したときにそこにある法則性を発見し、それを解説したケースのほうが多いと思います。
石ノ森章太郎であれ押井監督であれ、解説本の中で披露されているロジックは、すべてがすべてあらかじめ考えられていたわけではないでしょう。

どの段階でクリエーターが自身のやりかたを自覚したかはさておき、そこで披瀝されるロジックにはそのクリエーターの考え方の精髄が含まれていることも少なくありません。

以下に、【METHODS ~押井守「パトレイバー2」演出ノート】の45ページ目から、僕が考えを変えるきっかけになった押井監督の記述を引用します。

 一篇の映画を構成するカットの中には、ストーリーの展開に全く貢献しないカットも必要です。敢えて言うなら「物語そのものを疎外し、異化するための意味不明なカットやシークエンスや設定」もまた必要になります。
 全てのカットが〈物語〉を構成する部品として必要十分にその機能を果たし、かつ緊密な計算のもとに並べられているとすれば、それは演出家にとって理想といえるフイルムかもしれませんが、映画を構成するあらゆる要素が、ただ物語を実現するためだけに機能するのであれば、映画は所詮「物語の器」であるに過ぎないことになります。
 実際には映画は見られることで様様な解釈を生み、演出家の思惑を越えた〈映画〉として体験されます。そしてそれこそが〈映画〉という自由で若い形式の特筆すべき長所であり、そして可能性でもあるのです。映画の演出という作業を、その最も本質的な部分まで射程に入れて考えるならば、こうした演出の限界はそのまま演出の可能性でもあります。
 映画は一般にどんな単純な作品でもこの種の読み替えの余地を残すものであり、量産による作品構造の純化や撮影時の偶然、俳優との出会いなど〈偶然〉の介入によって、アクション映画が奇妙に普遍的な世界観を実現するような、そんな幸福な瞬間に出会うことがあります。一方でアニメは一般に実写作品に較べて情報量が圧倒的に少なく、(それゆえに表現や構造をコントロールしやすいというメリットもあるのですが)この種の〈偶然〉と遭遇することは稀です。量産されるTVシリーズに較べて、謂わば一回勝負である映画草品の場合は特に〈偶然〉を孕みにくく、これがアニメ作品が同じ映画の構造を持ちながら「所詮は漫画」であり「底が浅い」という印象をもたらす原因のひとつともなっています。

(中略)

 アニメが、アニメであることの限界を抱えつつ、世界の奥行を実現して〈映画〉に到達する方法とは何か?
 その試みが〔鳥のいる風景〕です。「P2」に登場する鳥たちにはどのような象徴的な意味もありません。強いて言うならば、それはこの作品で描かれた「世界」と「物語」に混入されたノイズであり、記号の体系を掻き乱すための異質な記号そのものに他なりません。本篇の外側にあって物語をアウトレンジし、作品を自律的に完結させようと目論む演出家の意図を長距離から射程に収め、射程に入れるそのことだけで脅威となる厄介な長距離砲。
 それがつまり〝鳥〟なのです。
 鳥をあちこちに出没させる作業にとって、レイアウトという工程が格好であることは言うまでもありません。



かなり長い引用になってしまいましたが、どのセンテンスも押井監督の創作観を現す上でとても重要なものだと思います。
僕はこれを読み強いショックを受けました。

押井監督におっしゃっていることは、実は文学の世界ではしばしば言われることではあるのです。
引用文で監督自身が仰っているように、「異化」というのはシクロフスキーのロシア・フォルマリズムの用語で、日本では大江健三郎氏が「新しい文学のために」でその異化について語り、実作においてそれを効果的に使われています。

また押井監督に書かれた「物語そのものを疎外し、異化するための意味不明なカットやシークエンスや設定」というものについての文学の実例は、たとえばデイヴィッド・ロッジの「小説の技巧」の中で多くの実例が紹介されています。
日本では筒井康隆氏の「創作の極意と掟」において、自作やヘミングウェイなどの作品を引いて、豊富に紹介されています。(有名な「文学部唯野教授」の段階ですでに異化が扱われています)

前回の記事で少し書いた、純文学にまま見られる「よそ見描写」も、異化的な効果を狙ったものもあるでしょう。

僕が押井監督の文のどこに驚いたかというと、文学(純文小説や詩など)において使われていた異化を始めとする効果を、「エンタメのアニメ映画」で行っているということにでした。

文学理論は実作者の立場から提唱されるものもありますが、学者や評論家が作り上げたものも少なくありません。
ともすれば理論が難解になりすぎ、実際の創作に使いづらかったり、使ったとしてもそれは理論をわかってる人にしか理解されない作品になってしまうこともあります。
創作をより良いもにするための理論ではなくなっているケースもあるように見受けられるのです。

それを押井監督は商業アニメの中に持ち込みました。
アニメの中に文学的な雰囲気や社会学的な知見を入れようというのは(文学的ってなんだよというツッコミはさておき)、たとえば高畑勲監督の1968年作「太陽の王子 ホルスの大冒険」ですでに積極的に行われていましたが、文学理論をアニメに持ち込んでフィルムを作ろうとしている人は少ないでしょう。

もっとも、押井監督の使う「異化」という概念は、シクロフスキーや大江健三郎氏の使う「異化」とはやや意味合いが異なるように感じます。
本来の異化は、日常的で使い慣れてしまった言葉や概念を、新鮮なものとして読者に受け取ってもらうの方法といえます。
押井監督の場合は、「映画」という映像体験を、視聴者にもう一度新鮮なものとして味わって欲しいという狙いがあるように見受けられます。
当たり前に消費される映画体験の「自動化」から視聴者を逃したい、というわけですね。

もう一度「METHODS」45ページの引用文に戻ってみますと、押井監督は「物語そのものを疎外し、異化する」という風に言葉を使われています。
そのあとの引用文と合わせて推測するに、線上に続いていく「物語」の流れをあえて邪魔するような「異物」を混入することで映画の情報量を増し、ひるがえって視聴者に物語の流れを再考してもらう効果があるのだと思います。
言葉を変えれば、視聴者に映画に対する批評眼を身につけてもらうため、とも言えるかもしれません。

上記引用文の最後に、「鳥をあちことに出没させる作業」というのが出てきますが、パトレイバー2ではさまざまな場所に「鳥」のモチーフが出てきます。
これはこの作品に限らず、それ以前からの押井監督の特徴によく挙げられていて、カルト的な人気のある「天使のたまご」でも鳥が登場しますし、個人的に大好きな「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」でも同様です。

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識者によっては、押井作品によく出てくる「鳥」や「魚」を聖書に登場するモチーフとして象徴的に解釈する方もいるようです。
実際、他作品ではそういった狙いもあると思うのですが、「パト2」に関しては押井監督の言葉に従えば、なんの象徴的な意味も持たず、『「世界」と「物語」に混入されたノイズ』ということになります。

METHODS ~押井守「パトレイバー2」演出ノート】の43ページより。
※このレイアウトに見える大きな鳥は、トラックの側面に描かれている。

METHODS.jpg


もっとも、鳥のレイアウトだけを見ても、物語を突き放すという押井監督が狙った効果は伝わりづらいでしょう。
実際に「パト2」の映画を観て頂くのが一番よいと思いますが、押井作品とはべつの作品で好個の例がありましたのでこちらを紹介します。

出崎統監督の1979年作品「劇場版 エースをねらえ! 」です。

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劇場版 エースをねらえ! [Blu-ray]


この中で、主人公の「岡ひろみ」と「竜崎麗香(お蝶夫人)」の二人が組んでダブルスの試合をする場面があります。
二人はライバル関係ですので、最初はうまく連繋がとれず相手ペアに押し込まれてしまいます。
ファーストセットを取られてしまったあと、インターバル中に二人はコーチの宗方仁から指導を受けます。
そして再び試合に戻るのですが、そのときコート上空をなんの脈絡もなくヘリコプターが通過します。

エース01
エース02
エース03
エース04
エース05
エース06


このシーン、最初観たときは本当にびっくりしました。
このヘリコプターはただ意味もなく通り過ぎるだけです。
物語の進展になんの寄与もしませんし、象徴的な意味も読みとれません。
たとえばこのヘリに、試合を中継しているテレビクルーが乗っているのだとすればそこには「物語」に絡んだ意味が発生します。
あるいはこのヘリと試合中のプレーになんらかの関係性(必殺サーブの名前が「ローターブレード・サーブ」とか)があった場合も、ヘリをだすことでそこに象徴的な意味が生まれます。

しかし何度繰り返し見直しても、このヘリの登場は唐突で、それ以降もなんの意味も与えられていない。
しかしそれが逆に、この映画をとても印象的なものにしています。
原作のマンガも読んだのですが、試合中にヘリは一切登場していませんから、これは出崎監督の演出なのはまちがいありません。

この「エースをねらえ!」はスポ根の殿堂に入れられているほどのものですから、ストーリー的には王道で、とくに予想を大きく裏切るような展開はありません。
しかしこの唐突なヘリの闖入によって、映画はとても印象深いものになっています。
観終わってから時間が経過し、ストーリーの流れをほとんど忘れてしまっていても、このヘリの登場はいつまでも記憶に残る方が多いでしょう。
ネットで感想を検索すると、やはりこのダブルスの試合でのヘリに言及している人が何人もいました。

実は、押井監督もこの「劇場版 エースをねらえ!」を繰り返し観て、アニメ映画について勉強したそうです。
情報がWikipediaからの孫引きになって申し訳ないのですが、押井守監督のページの出崎統監督にまつわる項目にそう書いてあります。(ソースの雑誌をチェックしたいけど絶版で手に入らない!)

押井監督は、2018年に上梓した「シネマの神は細部に宿る」の中でも、映画はストーリーではなくディテールが重要である、ということを強調されています。
また、映画とは再会するものである、とも言い、印象的なディテールの作り込みによっていつまでもワンカット・ワンシーンが視聴者の記憶に残り、ストーリーを忘れられても何年もあとになってまた見返してもらえ、そこでまた映画と再会してもらえるとも書いています。
このことから、「METHODS」のころからいまに至るまで、創作に関する基本的な考えは変わっていないものと推察できます。

さて、これまで三回に渡って書いてきたことを前提に、次の最終回では「表現の強さ」とはなにか、現時点での自分の考えをまとめてみます。
書いてる人

藍上 陸(Ranjo Riku)

藍上 陸(Ranjo Riku)
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1985年生まれ。最近ちょっと病気で体調ががががが。

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